(53)『墨東綺譚』

永井 荷風 『墨東綺譚』 2009年9月

小田島 本有    

 墨田で老年の男と若い女との間で情が交わされるという「ありえない話」があった。これが「墨東綺譚」というタイトルの由来である。
 「わたくし」こと大江匡は58歳の小説家。その彼が私娼窟の玉の井で雨の中偶然出会ったのがお雪である。彼女は26歳。「わたくし」は小説『失踪』を執筆中である。彼にとって現実世界と『失踪』の虚構世界が相補関係にあることは見やすい。
 お雪からすれば「わたくし」は客の一人である。しかし、出会いから三か月後彼女は「わたくし」に「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない」と言う。芸者になりたての頃、彼女には惚れた男がいた。「わたくし」は彼に似ていたのである。しかも、彼女はこのときまで「わたくし」の本当の年齢を知らなかった。「わたくし」が「いやに若い」ことは作品の冒頭、巡査が職務質問の際に洩らした言葉からもうかがえる。お雪のプロポーズの言葉は、過去の夢の実現という意味合いもあったのだ。
 だが、「わたくし」は「未来が自分に託されているという感じ」に襲われ、やがて彼女から遠ざかる。「わたくし」には束縛されること、責任を持たされることへの根本的な不安がもとからあった。「わたくし」が玉の井を訪れたのは、有名作家として絶えず注目される都会の喧騒から逃れたかったからであり、お雪のいる場所そのものが好都合だったのである。お雪との関係はあくまでもかりそめのものであり、だからこそ彼女に自分の素性を隠すことも可能であった。
 作品の終わり近く、お雪と素見客(ひやかし)とのざっくばらんなやり取りを見て、「窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべき一縷の糸の繋がれていること」を「わたくし」が感じる場面がある。「わたくし」はこのとき、自分と彼女の住む世界の違いを見たのだ。だが、これに続き、「お雪はいつとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一変させようと云う心を起している。(略)お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。」と「わたくし」が語るとき、たとえそれが間違いでないとしても、そこにお雪から離れようとする「わたくし」の口実めいた響きを否定しがたいのである。
 他者と本質的な関わりを持とうとしない。それが「わたくし」の生き方であった。彼にとってお雪そのものも、時代と共に失われつつある過去の幻影であったのかもしれない。