梶井 基次郎 『檸檬』 2009年8月
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(お)さえつけていた」
『檸檬』はこのようにして始まる。この作品には「その頃」という言葉が頻出する。ここで注意しなくてはならないのは、語る「私」と語られる「私」とが明確に区別されているということだ。すなわち、「不吉な塊」に「圧さえつけ」られていたのはかつての「私」であり、現在の「私」ではない。絶えず憂鬱に取り憑かれ、丸善の大爆発を夢想して「変にくすぐったい気持」になる「私」は過去の「私」なのである。
「えたいの知れない不吉な塊」とはいったい何なのか、作品を読む限りでははっきりしない。ただ、「肺尖カタル」「神経衰弱」「借金」という言葉が見られることから、当時の「私」を取り巻く状況は決して芳しいものではなかったことだけは窺える。「始終私は街から街を浮浪し続けていた」と書かねばならなかった所以がここにある。「私」はじっとしていられなかったのだ。
「その頃」の「私」は「みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられた」という。「みすぼらしくて美しい」とは矛盾を孕んだ印象を受けるが、世間通常の価値観に迎合しないところに、この「私」の若さや矜持を認めることができよう。
「私」が当時最も好きだった果物屋も、決して立派な店ではなかった。「私」が特に気に入っていたのは夜で、その店頭だけが妙に暗い。それが「私」を誘惑したのである。そこで「私」は一顆の檸檬を買う。手にした一顆の檸檬によって憂鬱が紛らされる心の不可思議さに「私」は驚かざるをえない。
「私」の足が赴いたのはかつて好きだった丸善である。かつては異国の文化を漂わせる雰囲気が「私」を魅了したのだが、今やそれらは「私」を憂鬱にするだけだ。そこで「私」が思い出したのは袂の中の檸檬である。本の色彩をゴチャゴチャ積み上げ、そこに鮮やかな黄金色の檸檬を置くことである種の緊張感を醸し出す。それが第一のアイディアである。埃っぽい丸善の中の空気が変わったように「私」には感じられた。
そして、「私」は第二のアイディア、すなわち積んだ画本と檸檬をそのままにしてその場を立ち去ることを思いつく。そして自らを恐ろしい爆弾を仕掛けた悪漢に擬するのである。大爆発を起こす光景を夢想すること、それが「その頃」の「私」にとっては自己解放に他ならなかった。
そして現在の「私」がそのことを他愛のない悪戯であったと認識していることは改めて断るまでもないだろう。