大江 健三郎 『死者の奢り』2011年9月
「僕」はある大学の文学部生。その「僕」が医学部地下室にある死体処理室のアルバイトに応募したことから物語は始まる。アルバイトにはもう一人女子学生がいた。
水槽に浮かんでいる解剖用の死体を新しいアルコール水槽に移すというのが彼らの仕事であった。死体は殆ど見分けがつかず、物体化している。管理人の説明では、そこには一人脱走を試み、衛兵に撃たれて死んだ兵士がいた。その死者と「僕」はしばし対話をする。戦争中に死んだ兵士は、今後もしかすると君たちが戦争を起こすかもしれないと「僕」に語る。それを評価したり、判断したりする資格が自分にはあると彼は言う。また、セクスむきだしの少女の死体が解剖台の上に横たわっているのを目の当たりにしたとき、「僕」は激しく勃起した。死者たちはここで個人としての相貌を現したのである。
女子学生は妊娠していた。彼女がアルバイトに応じたのも中絶手術に必要な資金を稼ぐためである。しかし、その彼女も、手術をすることは人を殺すことであり、かといって十ヶ月放置すればまた違った形での責任を負わなければならない、という重いジレンマを抱えていた。自分が全くの無傷でそこから這い出る方法はないのだ。その彼女が水槽部屋で足を滑らせ、その後体の不調を訴える。下腹のあたりが締めつけられて苦しいという。このとき彼女はこう「僕」に言うのだ。「今ね、わたしは赤ちゃんを生んでしまおうと思い始めていたところなのよ。あの水槽の中の人たちを見ているとね、なんだか赤ちゃんは死ぬにしても、一度生れて、はっきりした皮膚を持ってからでなくちゃ、収拾がつかないという気がするのよ」
一方、「僕」は医学部の教授から、「こんな仕事をやって、君は恥かしくないか? 君たちの世代には誇りの感情がないのか?」と尋ねられ、生きている人間と話すことの「徒労な感じ」が拭えない。これは「希望がないなら、どうして学校へなんか行ってるんだ」と管理人に尋ねられたときの戸惑いとも共通する。生きている者を説得させることの難しさを感じれば感じるほど、「僕」は途方に暮れるしかない。
管理人室に医学部の助教授がやってきて、それまでの作業が無駄だったことが明らかになる。古い死体は死体焼却場で火葬し、新しい死体だけを新しいアルコール液に移すことになっており、その前提で文部省からの予算も下りていたのだ。明日文部省からの視察もあるため、それまでに作業を終了しなければならない。
今夜「僕」は働かなければならないだろう。余分な労働に対する報酬はどうなるのか、全く分からない。「僕」はさらなる徒労感に襲われる。しかし、そもそも人生そのものが徒労ではないのか。我々はそのことを日頃は忘れたかのようにして振る舞っているにすぎないのだ。