末広鉄腸『雪中梅』 2016年3月
日本史の教科書の中で明治時代に出版された政治小説の一つとして『雪中梅』の名前が挙げられていたのを記憶している人はいるかもしれない。だが、実際に読んだことのある人というのは極めて少ないのではないか。
この作品の中における現在時は「明治173年10月3日」である。つまり帝国議会が開設されて150年後を想定した未来小説ということになる。奇書『雪中梅』『花間鶯』が発見され、既に筆耕済みの前者は国会開設の明治23年以前の様子が描かれていて、非常な感動を与えるという。作者の自作に対する自画自賛ぶりは読者がかえって恥ずかしくなるほどだ。
確かに作品の前半では主人公となる国野基が井生村楼での演説会で弁士として登場して喝采を浴びたり、友人に送った手紙が嫌疑を受けて危険人物として拘引され、しばらく獄中生活を強いられたりするなど、政治的な場面が見られる。だが、作品の後半では国野と富永春の才子佳人型の物語が前面に出てくると作品の様相が一変する。作品としての統一性が保たれているとは言い難い。才能溢れる男と美女が出会い結ばれて行くというストーリーは当時の文学の主流である。鉄腸は新しいジャンルを求めながらも従来のパターンに引きずられていたのだ。
お春は両親を既に失っているが、この両親が娘に言い残したのが深谷梅次郎との結婚だった。父親がこの青年に惚れ込んだのである。だが、この梅次郎は姿を消して消息が知れない。母親は自分が亡くなっても2、3年は養子を取らないで欲しいとお春に伝え、彼女もその言いつけを守っていた。お春は女教師も務めたこともあるインテリ女性であり、国野の演説を聴いて以来、彼の陰の支援者にもなっていた。一方、お春に遺された財産を狙っていたのが叔父の藤井権兵衛である。彼はお春の父親の遺書を偽造し、遺産の横領まで謀ろうとするが、その策略に気づいたお春はその手には簡単に乗らない。お春は国野に相談し、彼とお春が婚約したという形をとって叔父に対抗することを提案した。
国野とお春が接近することを警戒する権兵衛らはいろいろと画策し、お春が品行の悪い女性であると国野に思い込ませ、二人を絶縁させようとまで試みる。だが、その疑いもやがては晴れることとなった。そればかりか、お春が所持していた写真がきっかけとなり、国野が深谷梅次郎本人であったことが明らかになる。彼は政治犯として嫌疑をかけられていたこともあり、「深谷梅次郎」を名乗っていた時期があったのだ。
お春が待ち続けていたのが心惹かれていた国野基そのものだった。事情を知って叔父の権兵衛が改心し、二人を支えることを表明する展開はいささか出来過ぎの感がなくもない。鉄腸が再び政治家としての国野基を描くべく『花間鶯』の筆を執ることになったのはいわば必然的な流れであったと言えよう。