徳冨健次郎『黒潮』 2016年4月
『黒潮』の描く時代は国会開設前夜。舞踏会に象徴される欧化政策を東老人は冷やかに眺めていた。この東三郎、かつては幕府の旗本だった人物。明治の世となって新政府から要請を受けるも本人は固辞。甲府の地に留まり20年が経過している。「世は三郎を忘れた、然し三郎は世を忘れなかつた」の一文が極めて象徴的だ。彼は薩長が主導する政府に我慢がならない。西洋崇拝の風潮も馴染めずにいる。彼には12歳で英国に渡って留学中の晋という息子がいる。やがて彼を政界に進出させたいという野望が東老人にはある。ところがこの東三郎は眼病を患い失明を余儀なくされたばかりか、脳溢血で倒れる。5年の時を経て晋が自宅に戻ったとき、三郎は臨終間際だった。「生涯の失敗」を胸に刻みつつ命を終えるこの老人の生きざまは無念の思いを読者に抱かせる。
『黒潮』にはこれとは別に、喜多川貞子を主人公とした話が書かれている。彼女は喜多川正道伯爵の夫人。しかし、夫には妾腹の子どもが3人もいる。中でも男児を産んだお隅は家の中で正妻であるかのように振る舞う。一方貞子が産んだのは道子という女の子一人。その彼女が学校での「子は親に従ふべき」との教えに同意できないのは当然のことである。かねてより妻子に不満を持っていた喜多川伯はある事件を口実に母子を引き離し、貞子を沼津の別邸に追いやったのであった。母親との別居を強いられた道子にとってもこれが辛いことであったのは想像に難くない。
貞子には梅津元房子爵という実弟がいた。それまでも不行跡のため姉を困らせた男である。彼は姉の窮状を知り、それを知り合いの新聞社に持ちかけて記事にすることをネタにして喜多川に金の無心をした。この脅迫まがいの要求を拒否した喜多川はそれまでの行状を新聞で暴かれる。喜多川の怒りの矛先は妻に向けられた。貞子はこの結果自殺に追い込まれるのである。弟の浅はかな行為はとんでもない悲劇を招き寄せたのであった。
こればかりではない。母の自殺を受け、娘の道子は「尼になる」と言い出す。周囲が翻意させようとしても彼女の決意は揺らがない。このため彼女は12歳で剃髪したのである。この展開に戸惑いを覚える読者は少なくないだろう。だが、忍従を強いられていた貞子は生前娘に「道子、決して男の妻におなりでない。尼になるのです、尼に――」と語っていた。貞子自身、自分のこの時の言葉が現実のものになるとは予想だにしなかったであろう。道子は母の言葉に従ったのである。
この作品は当初、兄の蘇峰が主宰する「国民新聞」で連載される予定だった。だが、日露開戦を控えそれを肯定する兄に同調できず、健次郎(蘆花)は独立して黒潮社を設立した。この事実は因縁ある兄弟のありようを伺わせる挿話と言えるかもしれない。