菊池寛 『入れ札』 2020年4月
小田島 本有
菊池寛は当時のベストセラー作家である一方で、『文藝春秋』を創刊し、芥川賞・直木賞を創設した敏腕編集者でもあった。
「入れ札」は国定忠次の赤城越えを題材として、忠次とその子分たちの心理を浮き彫りにした短編である。我々は日頃言葉を介して他者とコミュニケーションをとるが、表に現れた言葉だけがその人間の心を表しているわけではない。この作品では、入れ札(いわば無記名投票)を通して、互いの思惑が交差する姿が浮き彫りにされている。前半では主に忠次の内面が描かれ、後半では子分の一人である九郎助の内面に焦点が当てられる。
国越えをする時点で、忠次のもとにはまだ11人の子分がいた。代官を惨殺し、関所を破ったことで彼らはいつ捕らえられてもおかしくない状況にいる。ぞろぞろと行動するわけにもいかない。忠次の悩みは、自分に付き従う子分たちの始末だった。
子分を2、3人に絞って連れて行きたいが(その顔ぶれも頭の中にはあった)、他の子分に暇を出すのも気が引ける。そこで彼は有り金すべてを子分たちに配分し、自分は単独行動をすると言い出す。当然子分たちは納得しない。ある子分は籤引きを提案するが、それは呆気なく他の子分たちに否定される。そこで忠次が提案したのが入り札である。子分たちはそれを了承した。互選であれば自分が密かに望む候補が選ばれる可能性が高い、という計算も忠次には働いていたのではないか。しかも自身は選ばなくて済むのである。
入り札で決めることになった時、内心まずいと思っていた子分がいた。年輩からいっても第一の兄分である九郎助である。最近彼は自分の声望が落ちているのを感じている。自分に入れてくれそうなのは、弥助ぐらいしかいない。その弥助は筆を執るとき、「好意ある微笑」を九郎助に向けてくれた。これを受け、九郎助は思わず自分の名前を書いてしまう。
その結果、4枚の浅太郎、喜蔵、2枚の嘉助が選ばれた。九郎助は1枚という結果を知り、自分の浅ましさを痛感した。
皆と分れて歩いていたとき、九郎助を追いかけてきたのが弥助である。弥助は彼の前で他の子分たちを批判し、「11人の中でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺ああいつらの心根が、全くわからねえや」と言い放つ。弥助はまさか九郎助が自分に入れたことなど、思いも寄らなかったのである。これを聞いて、九郎助は「この野郎」と斬りつけたい思いにも駆られる。だが、そうするわけにもいかない。弥助を追及するには、自分の恥ずべき行為を曝け出さなければならないからだ。それは自分をよけい惨めにさせるだけである。
白々しい嘘をつく弥助と、自分に入れ札をしたことを告白すらできない九郎助。晴れた上州の空に小鳥たちのほがらかな鳴き声が聞こえる場面を描いて、作品は幕を閉じる。