伊藤整『生物祭』 2022年11月
父危篤の知らせを受けて帰省した「私」。あれから10日が経過した。父は持ち直したものの、医者から病気は絶望的だと言われてから2年になる。長い間看病を続ける母は「茫然とした無表情の状態」に陥っていた。父の死期が確実に迫っている中、そのことに動揺しない「私」の姿がこの作品では描かれている。
「私」は思う。父は何を考えているのか。1か月前から少し気分のいい時は経文を読んでいると母は言う。だが、「私」には父が生きている間に解決すべき問題があるのではないかという疑問も拭い難い。
この作品では、しばしば「けきょ、けきょ」と鳴く鶯の声が描写されている。父はこれを聞くのを楽しみにしているのだが、鶯と父はまさに「生」と「死」という点で対照的な姿を表していると言えよう。
散策していると、道の両側から発せられる李の花の強烈な匂いは「私」を凶暴な行動に駆り立てる。持っていたステッキで枝を殴りつけ、落ちてきた枝を蹴飛ばしたり、葉の繁みから蛇が出てくると大きな石を落として殺してしまう場面が見られる。「私」の入り込んだところはまさに「人を狂気にするような春の生物らの華麗な混乱」だったのである。作者は別のところでは「春は私にとって異邦人の祭典にすぎない」とも述べている。深夜に散策したとき、李の強烈な匂いに誘われて「私」の頭に浮かんだのは、10歳の時の受持ちだった女教師、親戚の年上の娘、姉の友達などの記憶だった。「私」は彼女たちを「数限ない、裸形の、匂をまき散らす妖精ども」と称している。この作品のタイトルが『生物祭』たる所以がここにある。
朝眠っているとき、鶯の声が聞こえ、それと共に父が咳をし続け、障子の向こうで廊下を歩く音が聞こえてくる。おそらく母だろう。「私」には苦痛に歪んだ父の姿が思い浮かぶ。「嘲笑を脊にして逃げ去る私の姿は同じ場合の父の身の曲げ方であり、哀な闘争慾に駆られて私が人に振り上げるのは父のみじめな細い腕だ。その残虐なつながりのために、私は父を正視することが出来ない」と「私」は述べているが、ここから近親憎悪を読み取ることが可能だろう。障子の桟を見ているうち、「私」の眼頭に湯のようなものが盛り上がり、溢れ、こめかみの方へ流れる。そして障子が歪み始めるのだが、「私」は知らず知らずのうちに落涙していたのだ。この涙が何を意味するのか、簡単に言うことはできないだろう。このとき鶯の声が聞こえていたという描写も印象深い。
姉に「チチキトクスグコイ」の電報を打ってくるよう母に依頼される「私」。父の死はもうすぐ迫っている。