(231)『黒い裾』

幸田文『黒い裾』  2024年7月

            小田島 本有

 『黒い裾』は主人公千代の「葬式の時だけの友だち」であった遠縁の劫(こう)との関わりを綴った短編小説である。
 出会いは千代が16歳の時だった。伯母が亡くなり持病を持つ母親の名代として彼女は葬儀に赴いた。喪服はなく普段着であることを断ったうえ彼女は母親の言いつけ通り丁寧な挨拶を行い、お手伝いも申し出た。その見事さにひどく感心したのが劫だった。彼は学校卒業後働き始めたばかりで、この日葬儀の中心的役割を果たしていた酒井さんの甥にあたる。
 100日後には葬儀の日に働いた者たちだけの集まりがあり、千代はそこで劫と再会した。相変らず劫は酒の席で必要以上に千代を持ち上げる発言をしていたが、その後の千代も葬儀のたびに劫の遠慮のない発言に臆することなく返すようになっていた。
 後に劫は結婚した。もともと劫が嫁に欲しがっていたのは千代だったという。だが酒井さんが「不幸になる」との理由で反対していたというのは妻桂子の話である。
 千代もやがて結婚した。だがしだいに夫婦の不和が顕著になり、夫は病を得て亡くなる。そして戦時中、酒井さんは焼夷弾の犠牲になる。そのとき必死になって動いたのが劫であった。
 酒井さんの死から3年後、桂子が千枝のもとを訪れ、劫が行方不明になったことを伝えた。どうやら仕事の上で大それたことを企み、その悪事が明らかになったという。酒井さんが生前彼を疎んじていた理由もその辺にあったらしい。逮捕を恐れた劫は郷里の近くの崖鼻まで来てそこで姿を消している。急ブレーキの跡は残っているのに本人の姿は分からずじまいなのだった。
 最後の叔父が亡くなったとき、千枝は喪服の裾が全部透切れしていることに気づいた。時間の余裕もないなか、彼女は鋏を使って乱暴な形で応急処置をした。その大胆さを目の当たりにしたばあやは動揺し、新しい喪服を作りなさいと進言する。このとき千枝は50歳を越えていた。たとえ喪服を作ったとしても今後どれほどそれを着る機会があるだろうかと考えたとき、彼女の脳裏に浮かんだのは劫の姿だった。彼なら新しい喪服を作りなさいと勧めるだろうし、自分の葬式にひょっこり現れるかもしれない……千枝はこうして「葬式友だち」を懐かしく思い浮かべるのである。
 「広い庭のずっと奥まで重なった青葉から、きらきらと薫風がわたって来た。千代の俄かづくろいの黒い裾へ爽かさが通って行った。葬式の、―人が死んだということの、―おちつきがここの屋の根におとずれはじめているなと感じた」。実に印象的な結末だ。