(232)『結婚』

庄野潤三『結婚』  2024年8月

            小田島 本有

  主人公の豊子は二度の結婚を経験している。
 最初の夫は材木問屋の息子。だがこの時は半年しか持たなかった。作品を読むとこのときの豊子は性的な喜びを感じることはできなかったようである。夫の方は妻を喜ばせようと焦りを募らせるばかり。そうこうしているうちに夫は家業に身が入らなくなる。夫の両親はそれを嫁の責任のように言い立て、結局「家風に合わぬ」という理由で豊子は離縁を申し渡された。
 その彼女がたまたま家の風呂に入っていて自分の四肢を眺めていたとき、急に名状しがたい思いに捉われる。誰かに抱きしめてもらいたいという願望であった。その彼女が「女の喜び」を実感できるようになったのは妻子のいる小沢と関係を持ってからである。小沢はパン組合の理事、豊子はそこで事務員をしていた。たまたま50歳近くの彼に車で送ってもらった際、彼から接吻をされたのがきっかけとなり、それ以来、小沢は豊子の家を頻繁に訪れるようになる。彼女の家の窓からは真向こうに小沢の家の明かりが見える。彼女はもともと小沢の家もしばしば出入りしており、小沢の妻や子どもたちとも親しい。ただ、このことで彼女が小沢との関係で殊更悩んでいたようには見えない。その点彼女はやや無頓着なところがあった。
 あるとき、小沢は戸田という男との結婚を豊子に勧めてきた。小沢は無理に結婚を勧めようとしたわけでもなかったが、豊子はあっさりとその提案を承諾した。戸田は寡黙な男である。パン屋で働く戸田は朝が早く豊子とは全く生活のリズムが違う。そのすれ違いに豊子は「情けないような、滑稽なような気持」になることがある。だが戸田のことを好きだという豊子の思いは日増しに強くなっていた。
 そんなある日、「戸田は大将のお古を貰ろた」という噂が流れていることを豊子は知る。その噂は戸田にも伝わっているのかもしれないと豊子は思うが、夫はそのような気配を示したことがなかった。そのような中、豊子は妊娠する。
 豊子は女学校の出身であり、学生時代は美術部で油絵を描き、本もたくさん読んでいた。そのことを思い出し、彼女はふと「人間は趣味を持つべきだわ」という思いに捉われる。そんな矢先、戸田は急に図面を広げて紙片に計算のようなものを始める。彼は大きな模型のヨットを作ろうとしていたのである。初めて見る夫の姿だった。
 やがてヨットは完成し、二人は朝早く近くの小学校のプールを訪れる。水の上をヨットが走り出す光景を二人が眺めている場面で作品は終わる。それはまさに二人の航海の始まりを象徴しているかのようだ。