(244)『箱男』

安部公房『箱男』  2025年8月

            小田島 本有

 小学校の学芸会で台詞を忘れたことがトラブルの要因となり、それがトラウマとなってその後は人目を避けるようになった「ぼく」。その「ぼく」が箱の中に閉じこもり、覗き窓から外を眺めるようになったのはいわば必然の流れだった。あるとき、空気銃で肩を撃たれた「ぼく」は坂の上に病院があることを教えられたのだが、そこの医者Ⅽと若い女性看護婦との出会いがその後の「ぼく」に大きな影響を与えることになった。
 医者Ⅽは「ぼく」が使用していた箱を5万円で購入し贋箱男になる。医者Ⅽにはもともと内縁の妻がいたが、彼女は医者Ⅽが若い看護婦と昵懇になったため家を出ていた。「ぼく」が看護婦に惹かれていることを知る医者Ⅽは、二人が自由に振る舞うことを認めたが、ただ一つだけ条件を出した。それが、二人の様子を覗く自由は認めてほしいというものだった。
 箱の中に閉じこもるということは、他者の視線を気にすることなく覗くことができることを意味する。医者Ⅽとの約束により、「ぼく」は覗かれる存在となった。「ぼく」はノートも書いていた。それまで贋箱男や看護婦を一方的に監視してノートを書いていた「ぼく」は、逆に覗かれ、自分こそが贋箱男の書くノートの登場人物かもしれないという可能性を突きつけられるのである。
 後で明らかになるのだが、医者Cは医師の免許を持っていなかった。これは彼が従軍以来師事した「軍医殿」の意向を受けたためだった。医者Cの内縁の妻だった女性も元は「軍医殿」の正妻である。
 作品の後半では医者Cによる二度にわたる供述書、あるいは「軍医殿」が書いたノートなどが提示されてくる。例えば供述書によると、海岸公園に打ち上げられた変死体が麻薬中毒にかかっていた「軍医殿」であり、その死が自殺だったらしいことがほのめかされる。一方、「軍医殿」のノートでは医者Cを「君」と呼んで語りかけ、「君」がまだ起きていない事件の供述書を書いていることの矛盾を指摘している。「軍医殿」は麻薬中毒にかかり、正常な医療行為ができなくなった。彼が医師Cに不法医療行為を無理にお願いしたのはそのことが深く関係していた。「軍医殿」は自分を殺してくれることを願っていた。その際、死刑執行人に罪はないとまで書いていたのである。さらに「ぼく」と関わりをもつようになる看護婦の名前「戸山葉子」は医師Cの供述書に一度だけ出てくるだけである。読者は彼女の名前を殆ど意識することはない。その彼女は部屋に閉じ込めたはずだが、気づいてみると姿を消していた。「ぼく」は彼女が迷路の中に入っていったのではないかと疑う。
 この作品は、「救急車のサイレンが聞えてきた」の一文で幕を閉じる。この救急車のサイレンが何であり、「ぼく」にとっていかなる意味を持つのか。最後まで読者に疑問を抱かせ続ける作品だ。