(249)『赤い人』

吉村昭『赤い人』  2026年1月

            小田島 本有

 この作品は樺戸集治監の1881年(明治14年)の開設から1919年(大正8年)の廃監までの38年の歩みを綴った北海道監獄史であると同時に北海道開拓裏面史である。
 作品は東京集治監から朱色の獄衣に編笠をかぶった囚人たちが遠路はるばる北海道まで運ばれてくるシーンから始まる。タイトルの「赤い人」とは囚人たちのことに他ならない。仮に彼らが脱走したとしても目につきやすいという理由からこの色が選ばれた。
 石狩国樺戸郡須倍都太(すべつぶと)に建てられた樺戸集治監。ここでの立地を決め初代典獄となった月形潔が月形町の名前の由来となっている。
 囚人たちは殺人や強盗などの極悪な事件を起こした者もいれば、いわゆる国事犯と言われる者も少なくなかった。政府に対する不満からの反乱や自由民権運動の高まりがその背景にはあった。
 当時の監獄の目的は懲戒にあった。彼らに耐え難き労苦を与えることで再び罪を犯そうとの悪念を生じさせないことが目論まれていたのである。その点で未開の土地であった北海道は最適の地でもあったのだ。彼らは森林の伐採、道路の開削、採掘などの厳しい作業を強いられた。
 作品中では囚人たちがやたらと皇族の安否を気にするシーンが見られる。仮に皇族が亡くなれば大赦令が下り、減刑によって釈放もないわけではない。事実1897年(明治30年)の英照皇太后の死によって大赦令が出されている。
 北海道は寒い。房内が寒いため囚人たちは身を寄せ合って寝た。それが性衝動を掻き立て、性行動による事件も頻発している。
 作品の中には、五寸釘を踏みつけたまま三里ばかり逃走したことで〈五寸釘寅吉〉の異名を持つ脱獄の常習犯西川寅吉、あるいはすぐれた絵の才能を生かして見事な紙幣の偽造を行って逮捕された熊坂長庵など、伝説的な囚人たちも紹介されている。空知集治監でも7回の脱獄を試みた寅吉に至っては、後年温和な人間となって模範囚となり72歳で仮釈放が認められ、娑婆に出てからは興行師の誘いで自らの一代記を語ったという逸話が残っている。
 囚人と看守の間にはいつも緊張関係があったようだ。失態を犯すと厳しい処分を避けられない看守は当然のことながら囚人たちには厳格な態度で臨む。そのことが看守に対する根深い恨みを植えつけることにもなった。花山看守殺しはその典型的な一例である。殺害した二人の脱獄囚はその後発見され看守たちによって殺された。看守たちがその遺体を原型をとどめないほど切り刻み、それを獄舎に運んで囚徒たちに見せしめとして見せるシーンは忘れがたい。囚人たちに恐怖を植えつけることが秩序を維持する最大の手段と信じられていたのだろう。