(27)『砂の女』

安部公房  『砂の女』   2007年7月

小田島 本有    

   昆虫採集のため砂丘を訪れた男が、結局ここに落ち着いてしまい、失踪者となってしまう経緯を語っているのが『砂の女』である。
 この男は学校の教師であり妻もいる。作品の結末で彼の失踪届が提示され、そこで彼の名が「仁木順平」であることが明らかにされるが、作品では一貫して彼は「男」と呼ばれ、固有名詞を与えられていない。それは彼がこの砂丘で出会い、暮らしを共にする相手が絶えず「女」と呼ばれているのと相応している。いわば社会性を剥奪され、まさに一対の「男と女」として向き合うことを彼は余儀なくされるのである。
 バスがなくなり、そこにいた老人に泊まる場所がないかを尋ねたことがそもそものきっかけだった。砂と格闘している部落の人々にとって、彼はちょうど好都合な働き手だったのである。
 彼が紹介されたのは、砂の穴で暮らしている女の家であった。縄梯子が外され、彼は脱出することができなくなる。女は何の疑いもなく、その状況を受け入れている。作品の中でとりわけ印象的なのは、彼が目覚めたとき、素裸の女が顔以外の全身を剥き出しにして畳の上に寝ているところを目撃する場面である。汗をかく、しかも砂が畳を覆うという状況の中でこれは致し方のないことだったのかもしれない。
 彼らの生活ぶりは上から覗かれている。彼が仕事をすれば水や食事が与えられるし、挙句の果てはこの女との性交も男はするようになった。
 男はいったんここからの脱出を試みる。それは成功したかに思われた。だが、彼は泥濘(ぬかるみ)にはまってしまい、村人たちに助け出されるのだ。
 やがて女は妊娠する。ある日彼女が下半身を染めて激痛を訴えたため町の病院へ入院させられることとなった。半年ぶりで縄梯子が下ろされ、女は連れ去られて行く。しかし、縄梯子はそのまま垂れ下がったままである。
 べつに、あわてて逃げ出したりする必要はない。男はそう考える。いつしか新聞を読むこと自体にも興味を失っていた彼だが、何かが彼の内部で変わり始めている。「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである」本文はこの一文で終わっている。しかし、巻末に据えられていたのは、7年以上経っても姿を見せずに「失踪者」と認定された家庭裁判所の審判であった。男はここからの脱出そのものを諦めたのであろうか。真相は謎のままである。
 ただ、この砂の穴の暮らしにも拭い難く日常生活が浸透していた。最初はそれに違和感を覚え、抵抗すら試みていたはずの彼は、<砂の女>という日常にすっかり絡め捕られていたのである。彼が逃げても逃げなくても、状況は大差なかったのかもしれない。