(34)『センセイの鞄』

川上弘美 『センセイの鞄』  2008年2月

小田島 本有    

 この作品を読んだときに、漱石の『こゝろ』を思い浮かべる人は少なくないだろう。語り手が自分と深く関わりをもったある人を「せんせい」と呼ぶ事にこだわるその姿勢において、両者は共通している。
 ただ、『こゝろ』が徹底して登場人物たちの名前を隠蔽していたのとは対照的に、『センセイの鞄』ではその相手の名前が「松本春綱」であることも明らかにされていた。それでも、語り手である大町月子はその人を「センセイ」と呼ぶ事を選択する。しかもこの手記においては「先生」でも「せんせい」でもなく、「センセイ」と書く事に彼女はこだわっているのだ。この三つはいずれも発音は変わらない。ということは、「センセイ」という表記へのこだわりはまさに彼女がこの回想を書き始めるにあたって生まれたものなのだ。
 「センセイ」と月子は、高校時代の国語教師と生徒の関係である。再会して2年、そして「正式なおつきあい」をして3年、二人は深い関係になってからも呼び方が変わらなかったのである。
 作品の中で、高校時代の同級生、小島孝が登場する。彼は高校の頃、月子に思いを寄せていた。久しぶりの再会以後、彼はしきりに彼女をデートにも誘い、彼女もそれに応じたりはするが、絶えずセンセイのことは脳裏から離れない。そして、彼女は作品を通して彼の事は一貫して「小島孝」と呼んでいる。この両者の違いは誠に興味深い。
 センセイは、真面目で不器用なタイプの人間だ。キノコ狩りをするとなればキノコについて予習を行い、皆が食べているときに平気で毒キノコの話をする。周囲にはおかまいなしだ。どこへ行くにも背広姿で鞄を携えている。センセイにとって鞄はもはや身体化された存在だったのだろう。
 月子と正式にお付き合いをするけじめとして、亡くなった妻の墓に彼女を連れてきたまではいいが、「ワタクシは、今でもやはり妻のことが気になるんでしょうかね」としか言わなかったために、月子を憤慨させたりもする。言葉が足りないのだ。
 しかし、既に恋愛気分にひたっている彼女に、「ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいを、していただけますでしょうか」という言い方をしてしまうセンセイにある種の微笑ましさを感じるのは私だけであろうか。結婚の前には恋愛がある。それぞれの段階をおろそかにできない、それがセンセイの性格だ。
 慌しい現代にあって、あらゆることがなし崩しにされていく。それだけにセンセイのこの不器用さは逆に輝きを増すのではないか。利害や打算とは無縁なところで展開される「年の差カップル」の物語だからこそ、読者はこの作品を新鮮に受け止めているとも言えそうである。