(39)『忘れえぬ人々』

国木田独歩 『忘れえぬ人々』  2008年7月

小田島 本有    

   亀屋という旅人宿(はたごや)で偶然落ち合った無名の文学者大津弁二郎と無名の画家秋山松之助。大津がいま書きかけの原稿「忘れ得ぬ人々」の詳しい中身について語る、というのがこの作品のあらましである。
 大津がここで口にした「忘れ得ぬ人々」は三人いた。
 一人は十年前、大津が体調を崩して保養のため東京の学校を退学し帰省をする際のこと。瀬戸内沿いの汽船から見えた一人の人物。淋しい島影の小さな磯を漁っていた姿を彼はその後何度も思い起こしたという。
 二人目は、五年ほど前、旅行へ出かけ、熊本から大分へと九州横断をしたときのことであった。荒涼たる阿蘇の草原から駆け降りて人里にやってきたとき、屈強な若者が澄んだ声で馬子唄を歌いつつ、馬の手綱を引いて通り過ぎて行った。夕月の光を背にしていたため、その横顔もはっきりとは知れなかったが、その黒い輪郭だけが目に焼きついているという。
 そして三人目は四国の三津ヶ浜に一泊して汽船を待っていたとき。町を散歩していると一人の琵琶僧が琵琶を奏でていた。彼を顧みる者は一人もいない。周囲の喧騒の中、大津はこの琵琶僧の姿に釘付けとなった。
 大津は言う。なぜこれらの人々を忘れることができないか。それは「憶い起す」からだ、と。
 大津は地方から立身出世を夢見て上京した青年の一人であった。しかし、願いが果たせず、その後失意の中で内面の苦しみを抱えながら文学を拠り所として自己を確立しようとしている。彼自らが言うように、絶えず「生の孤立」を感じているのが大津青年だったのだ。
 彼がこれらの人々に惹きつけられ、今でも忘れることができないのは、彼らがいわゆる「名利競争の俗念」から全く無縁のところで生きているように感じられたからである。大津は彼らを思うときほど心の平穏を感ずることはないと言う。それだけ彼には自分が立身出世コースから外れた人間であるという意識が拭い難く残っていたということだ。大津にとって彼らは慰めの対象だったのである。
 この作品には落ちがある。
 二年後の大津は東北の地にいた。秋山との交際は全く絶えている。大津の目の前には二年前と同じ「忘れ得ぬ人々」の原稿が置かれてあり、その最後に書き加えられたのは「亀屋の主人」であり、「秋山」ではなかったというのである。
 じかに接し、会話を交わした人間は「忘れ得ぬ人々」の登場人物にはふさわしくない。あくまでも言葉を交わすことなく、遠くから眺められた対象こそが似つかわしいのである。それが「忘れ得ぬ人々」のイメージを保つためにはどうしても必要であった。そこに文学者大津のある種の限界を認めることはあながち間違いとは言えないであろう。