(91)『 岬 』

中 上 健 次 『 岬 』2012年11月

小田島 本有    

 昭和50年下半期に芥川賞を受賞した『岬』は、中上健次のその後の作家生命を決定的に方向づける作品となった。
 この作品は秋幸という24歳の男が主人公であるが、彼の一人称で語られるわけではない。あくまでも秋幸を視点人物として語られており、地の文において秋幸は終始「彼」と呼ばれている。そこには、秋幸に寄り添いながらも彼とは一定の距離をとろうとする語り手の姿勢が伝わってくるのだ。彼には呪うべき相手がいた。それは彼の実父であり、彼を「あの男」と呼ぶところに秋幸の心情が見てとれる。秋幸の実母は女癖の悪かった「あの男」に三下り半を突きつけ、一番下の子供である秋幸だけを連れて行った。このため残された兄や姉たちの心の底には「母親に捨てられた」という思いが拭いがたく残ったのである。彼等は実母にとって最初の夫との間に生れた子供であり、秋幸だけが二度目の夫すなわち「あの男」との間に生まれた唯一の子供であった。
 秋幸の現在の家庭は実母と義父、その息子である文昭、そして秋幸という4人家族である。「この家は、不思議な家だ」と秋幸が感じるのも無理はなかった。
 この家に秋幸の兄が鉄斧をもって「ぶち殺したろかあ」と乗り込むこともあった。そのとき実母は「刺すんやったら、刺してもかまわん」と言い放つ。その兄がやがて首を吊って自殺した。まだ24歳の若さだった。自分がその兄と同じ年齢となったことを思うにつけ、秋幸はあのときの兄の心情に思いを馳せたりもする。
 破壊的な衝動に駆られるという点では秋幸も同様だった。「あの男」が女郎に産ませた娘が新地の店『弥生』でやはり身体を売っているという噂を彼は耳にする。その娘はまさに自分の妹である。秋幸はこの歳になるまでまだ女を知らなかった。それは女と見れば見境なしに手をつけた「あの男」と同じように自分がなってしまうことの恐れがあったからである。噂を聞き、彼はその妹に「会うつもりはない」と思いながらも、その一方で「会ってみたい」との誘惑にも駆られる。
 作品中では、身近で殺傷事件が起きたり、秋幸の姉である美恵が自殺衝動に駆られ、精神的な疾患の様相を呈したりする場面が綴られる。いずれもこの閉鎖的な土地で、どす黒い血に呪縛された人々の呻吟する姿であったとも言えよう。
 その中にあって、秋幸はその元凶でもある「あの男」を凌辱することを考え始める。「あの男」に報復すること、それが『弥生』で働く実の妹、久美を犯すことに他ならなかった。もちろん、彼女は秋幸が実の兄であることを知らない。射精したとき、彼は「けもの、畜生。人にどうなじられてもかまわない、いや、人がどう嘆いてもかまわない」と心に思う。彼の破壊衝動は同時に破戒衝動でもあった。