(182)『椎の若葉』

葛西善蔵『椎の若葉』   2020年6月

小田島 本有

 葛西善蔵と言えば故郷に妻子がありながらよその若い女性と同棲し、その乱れた生活ぶりを創作のモチーフにした、典型的な私小説作家として知られている。『椎の若葉』はそうした葛西の〈おせいもの〉と言われる作品群の一つである。
 この作品の冒頭と結末は、下宿の二階の窓から見える椎の若葉の美しさが語られている。その美しさを感じれば感じるほど、主人公は自らの「弱りかけ間違いだらけの生き方」を痛感せざるを得ない。
 主人公は鎌倉のおせいの実家でさんざん暴れ、仲裁に入った男の睾丸を蹴り上げて気絶させたことが新聞紙上に載る。その前日に新聞社から確認の電話があったが、いかんせん主人公の記憶は定かではない。
 この主人公、自称詞が「自分」「僕」「わたし」、はては「我輩善蔵君」までころころ変わる。この小説は談話筆記で書かれており、相手との距離の取り方の変化、あるいは主人公の心の揺れが微妙に影響を与えているとも言える。
 この作品は古木鐵太郎という編集者が口述筆記するスタイルで生まれたものである。主人公でもある葛西は新聞に載った事件のいきさつを語っていくわけだが、「自己小説家」を自認する彼が「こんな程度のものでは面白くも可笑しくもない」と思いながらも語ってしまうあたり、それが彼の性であったとも言える。
 おせいの父親と義兄が既におせいを連れ帰っていた。両者の間でも一応の話はついていた。ところがたまたま鎌倉を別件で訪れた際に、おせいの母親には会いたいという気持ちが芽生え、結局その母親が経営する飲食店を訪れることになる。酒を飲んでいるうちにやがておせいの父親も入ってくる。そもそも主人公はこの父親やおせいの姉からも借金をしていた。彼は当初店を訪れる際「喧嘩するつもりはない」はずだったが、このような状況になればいかなる展開になるか、おおよそ見当がつこうものである。乱暴を働いた場面を彼は詳しく思い出すこともできない。それを「のんべ」の性として弁解したり、「我輩の手は呪われた手なんだ」と言い出したりする。彼はその事件の7、8年前に「呪われた手」という作品を書き、自らを戒めていたはずである。
 主人公は「何にもかにも三十八年間の罪業過失の懺悔をしたい」、「女房は可哀そうだな」という言葉を漏らしている。だが、その一方で「そこまで悟りが出来ていない」自分を自覚してもいる。
 窓の外には日を浴びた椎の若葉が見え、それが主人公に「安らかさと力」を与えてくれる。「我輩の葉は最早朽ちかけているのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾分かを僕に恵め」の一文で作品は幕を閉じる。自分の不甲斐なさを思えば思うほど、椎の若葉は主人公にまばゆく見えたに違いない。