(3)『舞姫』

森鴎外『舞姫』 2005年7月

小田島 本有    

 男と女が深く関わるということは、相手の存在を丸ごと抱えることに他ならない。では、大田豊太郎は異国の地で出会ったエリスに対してそのような覚悟を果たしてもっていたのであろうか。
 踊り子であったエリスの悲惨な境遇を目の当たりにし、彼女を経済的に救おうとした彼の行為には、明らかに憐憫の情があった。しかし、留学先で他の日本人 仲間と行動を共にすることができず、いわば孤高(孤立)状態にあった彼にとって、エリスはまさに癒しの対象だった。彼女との関係を留学生仲間から誹謗中傷 された彼は、免官に追い込まれ、出世の道はいったん断たれたかに見える。エリスとの同居生活はこうして始まった。
 ただ、彼には幼少期から培われた立身出世の思いが拭い難くあった。友人相沢謙吉の手引きで天方伯に通訳として随行することに彼が同意したのも、あわよく ばという思いが心のどこかに潜在していたからだ。この随行によって豊太郎はその実力を認められ、帰国を促される。このときエリスは妊娠していた。帰国に同 意することはエリスを捨てることに他ならない。だが、彼は「否」と答えることができなかった。自己呵責にさいなまれながら雨の中ようやく家に辿り着いた彼 は、玄関先で倒れ、数日間人事不省に陥る。そして、意識が目覚めたとき、彼が目にしたのは、精神に異常をきたしたエリスの姿である。豊太郎に代わって相沢 から事情を知らされた彼女は、「我をば欺きたまひしか」と豊太郎を罵り、その場で卒倒したという。
豊太郎はエリスの妊娠を知らされた時から驚愕を示しており、そのことに喜ぶ彼女とは全く対照的であった。豊太郎は彼女との関係を今後どうするのか、本音で彼女と話し合うことをこれまでもしてこなかったし、必要な時点でしかるべき判断(選択)をしてこなかった男である。これは忠実な官僚として生きることを要 請された彼らしい態度であったと言えよう。
 今帰国の船の中で、豊太郎は相沢を憎む心が介在していることを最後に告白する。だが、それは責任転嫁というものだろう。それまでエリスと本当の意味でのコミュニケーションをしてこなかったことがこの悲劇の大きな要因だ。そのことに豊太郎は今でも気づけないでいる。
 人間には決して法律では裁くことのできない罪というものが確かに存在する。法学士である豊太郎にはそのことがどの程度自覚されているのであろうか。そこに厳しい自己凝視の姿は見出すことができない。