(5)『生れ出づる悩み』

有島武郎 『生れ出づる悩み』 2005年9月

小田島 本有    

人に語りかけるということは、とりもなおさず自分に語りかけるということではないのか。有島武郎の『生れ出づる悩み』を読むたびにその思いは強くなる。
 この作品は、語り手である「私」が滞りがちな筆をなんとか動かそうとする自分の姿を冒頭に描いていた。そのときに思い浮かぶのが「君」のことである。
 この作品では、「君」との出会いから始まり、絵を描きたいという願いと家業である猟師としての仕事との狭間で悩み続ける「君」の姿が浮き彫りにされていく。
 しかし、考えてみれば、第三者ならまだしも当事者である「君」にそのことを語る必然性は本来ない。だとすれば、この語りそのものが「君」のためというよりも、「私」自身のためであったと考えなくてはならないだろう。
 「私」は芸術家であった。おそらく執筆をする作家なのであろう。その彼が作品の冒頭で、執筆の苦しみを描いていたということは、「私」もまた「君」と同様<生れ出づる悩み>を抱えた人間であったということである。
 「私」は「君」に寄り添い、共に悩む。しかし、そこには自分とは全く異なる生活環境で逞しく生きる「君」の生活を擬似体験したいという、作家としての本能的な欲求が込められていたことを見逃すべきではない。
 暴風雨の海で必死になって自分を支えようとする「君」、あるいはもう耐えられなくなって自殺を思い、崖の上までやってくる「君」の姿を描写する「私」の語りは、まるで「私」がその場にいたかのようなリアリティをもって迫ってくる。「私」は「君」とすっかり同化する。そして共に荒れ狂う海と戦い、一方では共に悩んで涙を流すのである。これは不在者「私」がその場を再現しようとする、作家としての賭けに他ならなかった。 「私」はこれらを通じてカタルシス(精神の浄化作用)を得る。そして、作品の冒頭でなかなか筆が進まず創作不能に陥っていた「私」は、「君」に寄り添うことで一つの作品を作り上げることができたのである。
  結末で「私」は、「君よ、春が来るのだ。」と雄々しく語りかける。この昂揚感は、まさに「君」に寄り添う擬似体験をくぐりぬけ、作品を作り上げたという達成感に裏付けられたものだ。語ること、それはすなわち自らを昂揚させることに他ならない。