(50)『伊豆の踊子』

川端康成 『伊豆の踊子』 2009年6月

小田島 本有    

 「私」にとって伊豆で旅芸人たちと行動を共にしたことは、計り知れない大きな意味をもった。そもそもはその中の踊子を見初めたことがきっかけである。 
 「私」は旅先で買った鳥打帽を被り、一高の制帽はカバンの中にしまった。「私」にとって彼らの中に入るには一高生という肩書きは邪魔なものでしかなかったのである。こうして「私」は旅芸人たちの視点で世間を眺めることができたと言ってよい。旅芸人たちを「あんな者」と蔑む茶店の婆さん、あるいは「物乞い旅芸人村に入るべからず」という村の入り口での立札。「私」はこのように彼らを取り巻く厳しい現実の一端に触れるのである。  当初「私」は踊子が17、8歳ぐらいだと思い込んでいた。彼女は客の前で太鼓を叩いている。太鼓の音が止むと彼女が汚されるのではないかと「私」は懊悩する。しかし、後に彼女は14歳の娘であることが分かった。彼女のあどけなさは川向こうの共同湯に入っていたとき、こちらを見つけ真裸のまま飛び出す姿に象徴されている。
 「私」と踊子が互いに惹かれ合っていたことは作品内からも十分窺える。そのことも周囲は気づいていたようだ。踊子の兄である栄吉が、別れの際「私」にカオールという口中清涼剤を贈り、「妹の名が薫ですから」と言った場面からもそれは明らかである。だが、二人で活動(映画)を見に行くことを「おふくろ」が承知しなかったことからも分かるように、二人にはある種の抑制が働いていた。だからこそこの作品に抒情が成立したと言えるのかもしれない。
 もともとは孤児根性に苦しむ自分を何とかしたいという思いから一人旅に出た「私」であった。それだけに、背後から自分のことを「いい人」と評する踊子たちの会話が聞こえてきたことは、「私」の心に浄化作用をもたらした。
 結末の場面、出立の朝、乗船場で「私」は婆さんを東京まで連れて行ってくれないかと土方風の男に頼まれる。婆さんは乳呑児を背負い、その他に二人の幼い女の子を連れていた。倅夫婦が流行性感冒で死んでしまい、孫が三人残されたという。国の水戸へ帰すことになったのだが、そこまで送ることができず、「私」を見込んで頼んだということだった。
 「私」はこの申し出を快く引き受ける。このとき「私」にはこの幼い孫たちがそう遠くない時期に〈孤児〉となる姿が見えたのではないか。だとすれば、「私」は彼らの中にかつての自分を見出したのだと言えよう。「いい人」と言われたことで孤児根性から脱却できた「私」は、今だからこそ孤児への慈しみが生まれたのである。そこには確実に変わった「私」の姿を垣間見ることができる。