吉行淳之介『星と月は天の穴』2012年1月
『星と月は天の穴』を読んだ人はすぐさま永井荷風『墨東綺譚』を思い浮かべるに違いない。どちらも主人公は小説家であり、執筆中の小説は若い女性との関わりが描かれている。そして創作者である彼らの現実生活にも似たような状況が展開されるのだ。
ただ、両者の読後感は随分異なる。『墨東綺譚』における大江匡とお雪の間には抒情性が漂っていたが、『星と月は天の穴』における矢添克二と瀬川紀子の間にはある種の渇きがある。それはひとえに、矢添の側に女性を一個の人格として捉えることを執拗に拒もうとする姿勢が認められるからだ。
その矢添もかつては一人の女を救おうと自己陶酔し、結婚をしたことがある。だが、妻にはやがて別の男性ができ二人の結婚は一年しか続かなかった。それ以来彼は独り暮らしを10年間通している。この一件は本人の自覚以上に大きなトラウマとなったのではないか。彼が恋愛や結婚ということを極端に避けようとし、女性が自宅に入ることすらを必死に拒もうとする姿勢にそれは見てとれる。彼も男性の一人であるからには性欲が湧く。しかし、それは道具となる女性を相手に処理すべきものであって、それ以上の意味をもたない。娼婦である千枝子に不感症を指摘した際、彼は「なによ、あんたが悪いのよ」と切り返される。彼の行為には心がこもっていないことを千枝子は言っていたのだ。
その彼の前に現れたのが女子学生の瀬川紀子である。彼女は5年前に父親を亡くしていた。彼女は亡父をもっとも愛していた。彼女が若い恋人とうまくいかず、矢添に近づいていくのもそれが原因と考えられる。紀子は「矢添さんに、恋愛小説が書けるかしら」と言う。情熱を信じていない人間に果たして恋愛小説の執筆が可能だろうか。このさりげない言葉はある意味において矢添の本質を衝いている。
矢添の生き方は極めて合理的な割り切りに支えられていた。彼は自分の領域を守り、他人をそこには入れなかったし、自分も他人の領域には深入りしない。彼は戦時中に青春期を迎え、未来は存在しないという感覚を味わってきた。そして戦後20年経たこの時点でも、眼は過去にしか向いていない。彼に絶えず老成した印象が伴うのはこのような背景があったからなのである。
作品の終わり近くで、二人の乗った車が横転し、事故に遭う場面がある(原因は急に対向車が現れたためだった)。二人は大きな怪我こそしなかったものの、頭に瘤をつくる。念のために病院を訪れる二人。彼らの距離が確実に縮まっている。病院では「叔父」と「姪」という立場を演じる二人がこれからどのような関係へと移行して行くのか、作品は明らかにしてくれない。