(86)『夏の終り』

瀬 戸 内 寂 聴 『 夏 の 終 り 』2012年6月

小田島 本有    

 慎吾の机に妻からの手紙が置かれており、その「若々しい情緒」の「匂う文面」に居ても立ってもいられず、知子が凉太のもとを訪れ、「気持が悪いったらない。べたべたしていやらしいの」と訴える場面が『夏の終り』にはある。慎吾と知子の愛人関係は八年続いている。一方、その陰でここ一年、慎吾の知らないところで知子と凉太の関係も進行していた。このとき凉太が「もう厭なんだ。あなたのそういうみっともなさをこれ以上見たくないんだ。当り前じゃないか、そんな手紙。向うは夫婦だ」と言って知子を帰そうとしたのは無理もない。
 この一例から分かるように、知子には自分の気持ちばかり訴え、それを聞く凉太の心を推し量ろうとしない鈍感さがあった。彼女はもう来ることのない凉太の部屋を出るとき、目にした空の青さに「夏の終り」を感じる。このとき知子は38歳だった。タイトルの「夏の終り」にはたんに季節ばかりでなく、知子の女としての凋落の意味合いも込められていたのだろう。
 この翌日、思い立った知子は海辺の町にある慎吾の家に向かう。自分と慎吾、さらにまだ会ったことのない彼の妻を交えて3人で話し合って決着をつけたいという、性急なまでの欲求が知子の中でこのとき湧き起こっていたのである。しかし、家にいたのは慎吾だけだった。家の中を見渡した彼女は家全体に「どこか投げやりな心のこもらないすさんだ感じ」が漂っているのを感じる。そしてこのとき、知子は慎吾の妻が手紙の中で書いていた犬がもうかなり以前に死んでいたことを慎吾から知らされる。ということは、知子を嫉妬させた慎吾の妻からの手紙は現在のものではなかったことを意味する。知子はいわば既に「過去」のものとなってしまった手紙に嫉妬の炎を燃やしていたに過ぎない。時間の流れによる倦怠感は慎吾と知子の間にだけあったのではなかった。慎吾夫婦の間も同様だったのである。
 知子は凉太とのそれまでの関係を慎吾に告白し、謝罪した。しかし、「惚れているのか」と尋ねられたとき、知子は「わからないの」と答えることしかできない。ただ、このままの状態を引きずっていては仕事も手につかなくなることを彼女は自覚している。しかし、慎吾の言葉は、「旅行でもしてくるといい」という、いつもながらのものであった。明らかに彼女は自分を変えざるをえない段階に差しかかっていることを意識している。だが、相変わらずの対応をする慎吾を前にして、果たして彼女に慎吾への態度を自ら変えて行くことは可能なのであろうか。この作品が「あさって、行く」という相変わらずの慎吾の言葉で締めくくられているのは象徴的である。