筒井康隆 『文学部唯野教授』 2013年3月
他大学での教授就任を実現させるための運動資金を捻出するべく、1年間のフランス留学を切り上げて2ヶ月で帰国し、ひっそり暮らす牧口。講師への昇格がかなわないと見るや狂気的な行動でキャンパス内を混乱に陥れ、ついには警察病院へ収容されることになった蟇目。この他にもさまざまな教員たちを面白おかしく描いた『文学部唯野教授』は一見すると抱腹絶倒のユーモア小説といえる。主人公唯野仁はこの早治大学で文学を講ずる教授。彼もまた軽口をたたく軽薄な人間として造型されており、牧口の恋人京子から軽蔑される場面もある。だが、仔細に読んでみると、意外と真面目な唯野の文学部教授としての顔が垣間見える。
彼は非常勤先の立智大学で文芸批評論の講義を担当していた。彼はそこでしばしば野田耽二の『象牙』に対するさまざまな批評の欠点を突きながら説明を重ねていく。『象牙』は芥兀賞受賞を期待される評判の作品だが、実は作者野田耽二は唯野本人だった。彼は決して素性を明かそうとしない。だが、それに気づいた女子学生がいた。唯野言うところの「絶世の美人」、榎本奈美子である。
唯野が素性を隠したのは、親分の蟻巣川教授がマスコミを蔑視していたためばかりではない。彼は新たな文学理論の構築を目論んでおり、小説創作はその実践だったのである。だが、文学理論の構築は金と時間が必要であり、大学を離れると到底無理であることを彼は承知していた。フィールドワークとして小説の場を見出した彼は、表面的な軽薄さとは裏腹に意外と真面目な研究者の顔をもっていたのである。『象牙』がいかなる作品なのか、『文学部唯野教授』を読む限りでは分からない。ただ、彼の講義を聴講した読経新聞の井森が「大学の講義の方が面白い」と述べていることから、『象牙』はやや理論的色彩の強い作品だったのかもしれない。
『文学部唯野教授』は別の読み方も可能だ。あっという間に唯野と身体の関係をもってしまった榎本奈美子は、もともと彼の小説の愛読者であり、彼の文芸批評論の講義を受講するため彼の非常勤先の大学まで潜り込むほど熱心な学生であった。唯野と深い関係になった彼女は早速彼を自宅に招待し、家族にも紹介している。余りの急展開に動揺した唯野が彼女に箝口令を敷こうとしたところ、彼女は彼の小心ぶりを非難し、「わたしが作家野田耽二を愛していることまでが、やましいことになってしまいます」と怒って帰ってしまい、その後は大学の講義にも彼女は姿を見せることはなかった。
その彼女がようやく現れるのは、作品の一番最後である。芥兀賞を受賞した唯野がサイン会を行い、作家になった幸福感を味わっているとき、彼女は目の前に立っていた。
これは彼女の純愛物語でもあるのだ。