吉行淳之介 『暗室』 2013年7月
吉行淳之介は谷崎潤一郎と同様、性を基軸として人間のありようを問い続けた作家と言えるのかもしれない。
「私」(中田)は妻の圭子が亡くなって10年間、独身生活を続けている小説家。彼は煩わしさを避けるため、女性との関係を身体の関係に限定している。圭子は交通事故で亡くなる少し前、妊娠したことを「私」に伝えていた。だが彼は、彼女に子供を堕ろすよう頼む。自分の留守中に、吝嗇と好色で有名な人気作家津野木が我が家を訪れていた。「私」はいまだにその疑念を払拭しきれないでいる。妻の死は自殺だったのではないか、との思いも消えない。
結婚とは一つの契約である。結婚するということは、相手を取り巻くさまざまなものをも請け負うことを意味する。「私」が圭子の死後、女性たちとの間で潔癖なまでに家庭的なるものを排除しようとしたのは、その煩わしさから逃れたかったからに他ならない。
作品中では、病院で無造作におかれた捨て子の赤ん坊、あるいは孤児院から抜け出し、電車に無賃乗車した幼い男の子と女の子のことが描かれる。男の子は「働かなくちゃ」と健気な言葉を発してもいた。これらも男女の無責任な性行為がもたらした結果と捉えることも可能だ。
「私」の身近にいた女性たちは次から次へと去って行く。かつて女性週刊誌の記者であり、その後「私」の通い家政婦となっていた由美子。「私」は彼女とは一線を画していたが、その後彼女は別の男性と結婚をする。4年間「私」の性欲処理の相手として好都合だった多加子も結婚を選択した。レズビアンであったマキは男と触れ合うと吐き気に襲われる習癖があったが、「私」の場合は結ばれることが可能となり、彼女もそれを喜んだ。やがてマキは自分が妊娠したこと、留学のため4年間アメリカへ行くことを告げる。子供を堕ろしてほしいとの「私」の言葉にも、マキは「迷惑をかけるつもりはない」と全く取り合わない。妊娠は彼女にとっては納得ずくの結果であり、そこには彼女の覚悟もあった。このような彼女を一方に置いたとき、「私」の卑小さが浮き彫りになってくる。
「私」には夏枝だけが残された。夏枝には以前から何人かのパトロンがいた。官能の世界に生きたいと言う彼女は子供の産めない身体になっている。これも「私」には好都合だったと言えよう。あるとき、彼女の身体に微妙な変化が生まれていることに気づいた「私」は、それが他の男の影響だろうと察知する。それまで以上に夏枝の身体に惑溺していく「私」。『O嬢の物語』ごっこを提案する彼女は「中田さんの奴隷になる決心をしたの」と言う。だが、事実は「私」が夏枝の奴隷になったということではないか。今日もまた「私」があの薄暗い部屋に行くことだけは確かなのだから。