辻邦生 『背教者ユリアヌス』 2013年8月
メレジュコフスキー『神々の死―背教者ジュリアン―』の中で、狡猾かつ抜け目ない策略家として描かれた主人公は、辻邦生の『背教者ユリアヌス』においてはプラトン哲学から得た理想を地上に実現しようとする夢想家として造型された。
もともとユリアヌスがキリスト教に共感し洗礼を受けたのは、修道僧たちの示す無償の愛に彼の感じやすい心が感応したからであった。後年皇帝となった彼がキリスト教に批判の眼を向けるようになったのは、教義に関する無意味な論争に明け暮れるキリスト者たちや、キリスト教を立身出世の道具と見做す人々に嫌気がさしたからである。そもそも彼は古代ローマの太陽神に心惹かれる青年だった。その点では、彼は背教したのではなく本来の姿に立ち返ったと言うべきかもしれない。
ユリアヌスの運命は数奇そのものである。確かに皇族の家系に生まれたものの、彼はコンスタンティウス帝の弟ユリウスの第四子であった。しかも嫉妬深いコンスタンティウス帝にガルス、ユリアヌス兄弟は命を狙われたり、幽閉されたりした。その彼がさまざまな経緯を経た後、皇帝に君臨する。もともと夢想的な哲学青年めいた性格だった彼は、さまざまな陰謀や裏切りの繰り返しの中で、皇帝の地位に導かれていく。だが、理想を実現しようとする彼の意志は、周囲からは絵空事にしか思われない。周囲の無理解の中、ユリアヌスが孤立を余儀なくされるのは致し方ないことだったのである。
『背教者ユリアヌス』には印象的な女たちが登場する。
コンスタンティウス帝の妻であったエウセビアはユリアヌスを愛し、ときには彼の生命を救うための駆け引きも辞さない。その一方でユリアヌスの妻ヘレナが懐妊したことを知るや、ヘレナにユリアヌスの子供を産む権利はないと考え、出産の場面に女官を立ち会わせ、出産するなりその赤子を抹殺させてしまう激しい嫉妬心の持ち主でもあった。ユリアヌスもエウセビアに心惹かれていたが、彼女のこのような一面は知る由もなかっただろう。
そしてもう一人、忘れてならないのが軽業師のディアである、置かれた環境の違いから二人は決して結ばれることはない。だが、それだけ彼女は純粋にユリアヌスを思い続けた。彼女が彼の前で最後の演技を見せる場面は感動的ですらある。
ユリアヌスはやがて戦死する。彼の遺骸を運ぶローマ軍団の長い列が砂漠のなか地平線に消えて行く。しばらくしてそれを追うように箱車を引いて続く男女の一団があった。彼らの中の一人、黒いベールをかぶった女がディアであったことは言うまでもない。 壮大なスペクタクルを締め括るにふさわしい、実に印象的な場面と言えよう。