井上靖『しろばんば』 2014年10月
『しろばんば』は井上靖の自伝三部作の最初に位置する作品。主人公洪作の湯ヶ島での小学校時代が描かれている。
この作品は前編と後編に分かれ、それぞれが二人の女性の死で閉じられていた。前者は叔母のさき子、後者は洪作を育ててくれたおぬい婆さんである。二人はいずれも洪作が愛した女性。彼女らも洪作を愛した。しかし、厄介だったのはこの二人が反目し合っていたこと。おぬい婆さんは洪作の今は亡き曾祖父の妾だった人であり、曾祖父の計らいで洪作の母である七重を養女としたのであった。しかも、おぬい婆さんはすぐ近くの「土蔵の家」に住んでいる。両者の反りが合わないのも無理からぬことだった。さらに、母の八重が妹を出産する際、面倒が見られないため一時的に洪作をおぬい婆さんに預けたことがきっかけで、洪作はすっかりおぬい婆さんになついてしまった。この結果、洪作はさき子らが住む「上の家」と、おぬい婆さんと暮らす「土蔵の家」との間で微妙なバランスをとる育ち方を余儀なくされたのである。
さき子とおぬい婆さんは、周囲から冷たい視線を浴びたという点でも共通点があった。おぬい婆さんの場合は言うまでもない。一方のさき子は同僚の教師である中川基と恋愛関係となり、妊娠をした。さき子以外にも妊娠する女性はいる。しかし、さき子の場合だけは周囲の態度は違う。小学生の洪作には素朴な疑問だった。彼はおぬい婆さんやさき子を通して子供ながらにも「世間」を感じていたのである。
さき子はやがて肺病となって洪作の前から姿を消す。あれほどさき子を嫌っていたおぬい婆さんは、後年彼女を「いい娘」と言うようになる。それは彼女が「長生きしなさい」とおぬい婆さんに声をかけてくれたからだった。さき子の死は洪作にとって悲しい事実ではあったが、反目し合った二人の女性の和解の姿を目の当たりにできたということは、洪作にとってもほっとする部分があったに違いない。
おぬい婆さんの洪作に対する溺愛ぶりは作品の至るところからも伺える。転校生が入ったことで洪作の成績が2番になり、腹を立てたおぬい婆さんが「上の家」に怒鳴り込みに行き、逆にそこの学校の教師でもあるさき子にやりこめられるシーンは微笑ましくもある。朝には必ず「おめざ」として飴玉を与え続け、その結果洪作が歯を悪くしてしまったのも溺愛ぶりを示すエピソードの一つだ。確かに周りが見えなくなるところはあったものの、ひたすら洪作のことを愛し続けたという事実は揺るがない。
洪作が中学校受験のため湯ヶ島を離れる前におぬい婆さんは息を引き取った。それは自らの役割の終焉をあたかも知っていたような幕引きであったと言えよう。洪作はおぬい婆さんを卒業し、新たな道に立ったのである。