(139)『野菊の墓』

伊藤左千夫『野菊の墓』 2016年11月

小田島 本有    

 「僕」こと斎藤政夫は戸村民子の死から10年あまり過ぎ去った今でも涙が止めどなく湧くという。政夫が民子との思い出を語ろうとするのも、このような状態に一応のけりをつけたいという願望があったからに他ならない。この二人はいとこ同士だったが、政夫の母が民子を可愛がっていたこともあり、民子は幼い頃から頻繁に斎藤家を訪れていた。年齢は民子の方が2年上だったが、民子にしてみれば政夫は弟のような存在だったのだろう。勉強中の政夫の部屋を訪れて時間を潰すことも珍しくなかった。民子が政夫に「へばりついている」と形容する者がいたくらいである。
 当人たちにとってこれは極めて自然なことであったが、それを良しとしない人たちがいた。既に政夫は15歳、民子は17歳になっており、周囲から見れば立派な男と女である。嫂の諌言を受け母親が政夫に注意した。二人はこの注意を受けて初めて互いを異性として意識し始めたと言っても良い。二人の態度がよそよそしくなるのはこれ以後である。
 ある日、家族で手分けをして作業をする必要上、母親の指図で二人が山畑へ行くことになった。政夫がこのときのことを「甘露的恩命」と語るほど、二人にとって偶然訪れた僥倖であった。道の途中で政夫が野菊を見つけ、それを摘んで民子に差し出したときの場面はあまりに有名である。野菊が好きだと語る彼女に対して政夫は「民さんは野菊のような人だ」と応じる。このとき政夫は野菊を「僕大好きさ」と言うが、これはとりもなおさず政夫の民子に対する告白であった。だが、この日二人は帰宅が遅れた。そのことがよけい周囲に疑念を抱かせる結果となったのだ。
 母は政夫に早く学校に戻るよう勧告した。そして矢切の渡しでの見送りがこの二人の生涯の別れになろうとは本人たちも予想すらできなかったであろう。このあと民子には縁談の話が舞い込み、政夫の母親の半ば強引な説得もあり民子は泣く泣く嫁入りせざるを得なかったのである。だが、彼女は妊娠したものの流産し、その後の肥立ちが悪く呆気なく息を引き取ってしまった。彼女が手に握っていたものが政夫の写真と手紙であることを知り、二人がそれほど思い合っていた仲であることを周囲の人間たちは気づかされた。とりわけ政夫の母が自らを「悪党」扱いして嘆く姿を目の当たりにして、政夫はどうすることもできなかったのである。
 作品の末尾で、「民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。」という一文がある。今の政夫の心は決して満たされていない。結婚という制度が本人たちの意向とは関係なく重くのしかかっていた状況が伺える。現代の視点で政夫の母親などを非難するのは簡単である。しかしこれは個人の責任に帰する問題ではない。