(214)『虚実』

高見順『虚実』  2023年2月

                小田島 本有

 この作品は冒頭で5年前の追憶が語られる。
 先妻との間に子供が生まれたものの、死産だった。その遺体を蜜柑箱に入れて「私」が火葬場に辿り着き、手続きに手間がかかったうえ、相手が死亡者の名前を尋ねたにもかかわらず「私」が勘違いして自分の名前を答えてしまい、骨壺には自分の名前が書かれてあったことも書き加えられている。もともと「私」は、先妻とは異なり、子供を欲していなかった。骨壺の「高田米吉」の名前は、そのような自分を対象化しているとも言えそうだ。
 先妻は良家の出身で、「ごく善良で平凡な家庭的女性」であった。収監されたこともある「私」はしがない作家で、家計を支えるため先妻は酒場で働かざるを得なかった。そこへ死産が重なり、「私」に愛想を尽かした先妻は「私」から逃げ出した。そのことを恨みに思う「私」は彼女をモデルに「おぞましい女」を造型した小説を発表し話題となったのである。その後、先妻は荒間研介というレヴュー役者と、「私」は別の女性とそれぞれ結婚生活を送っている。
 そこへ、先妻から借金の申し込みが「私」にあった。多少良心の呵責も感じていた「私」は、知り合いの金貸し業者を紹介し、自分も連帯保証人となったが、やがて金貸し業者から借金が返済されないこと、「私」が先妻をモデルにした小説で金を稼いだのだから「私」に払ってほしいと先妻が言い出し、困っていることを聞かされた。これがかなり勝手な理屈であることは言うまでもない。ただ、この時点ではまだ先妻の「善良さ」を信じる思いが「私」には強かった。
 そのイメージの崩壊は、荒間の話によってもたらされる。酒に酔いながら荒間は妻のことを、「あいつはあんたの小説に書いてある通りだ、仕方のない女だ」と語り、妻とは別れたいと言い出す。荒間の話によると、彼女はすっかり変身していた。彼女は夫婦別々の経済生活を主張し、子供もいらないと拒否していたのだ。それでも荒間は妻に対して愛憎半ばする思いがあり、それが彼を悩ませていたのである。
 「私」は先妻と会い、借金は自分が払うこと、荒間とは絶対に別れてはいけないと伝えた。先妻は荒間を完全に子供扱いしていた。そこに「私」は彼女の「荒廃」を見出す。その彼女を「私」は必死に説得する。いつしか二人とも泣き出していた。そこに「私」は希望を見出したのだった。
 ところが、数日後、荒間が妻を締め殺したという新聞記事に「私」は遭遇する。この悲劇はもともと「私」が原因なのではないか。作品のタイトル「虚実」には、「私」が先妻をモデルにして書いた小説が含意されている。先妻はその虚実の境が曖昧模糊となっていくプロセスを経験し、それが悲劇を招いたとも言えるのだ。