(215)『家霊』

岡本かの子『家霊』  2023年3月

                小田島 本有

 くめ子は長年続くどじょう屋「いのち」の娘であり、女学校を卒業後3年間は家を離れ職業婦人として暮らしていた。ところが母親が不治の病となり、彼女は家業を継ぐことになる。もともとは「洞窟のような家」を嫌って飛び出した彼女であった。だが、職業婦人としての生活は必ずしも彼女に満足感をもたらすものではなかったようである。
母親から帳場を任されたとき、「いずれは平凡な婿を取って、一生この餓鬼窟の女番人にならなければならない」と、くめ子には半ば諦めの気持ちがあった。それは自分の母親が忠実に家職を務めていくなかで「無性格」で「頼りない様子」となり、「能の小面のように白さと鼠色の陰影だけの顔」になってしまった様子に明るい未来が見出せないからであった。 この店に長年通い続けた徳永という彫金師の老人がいる。だが、彼は今では店の者に厄介払いされている。というのも、先代の母親の情けにすがり、借金ばかりが嵩んできているからであった。だが、徳永は相も変わらずご飯つきのどじょう汁を注文する。
徳永は彫金の中でも特別の技能を要する片切彫の職人だった。彼はそれがどれだけ大変なことか身振りを交えて説明するが、確かに老人の槌の手は「芸の躾」を感じさせるものがあった。これを実現するには「いのち」とも言うべきどじょう汁が必要だと彼は言う。
そして、彼は夜くめ子だけの店を再び訪れ、どじょう汁を所望した。そしてこのとき、彼はくめ子の母の若い頃について語る。その頃、「おかみさん」は婿をとったものの、その婿は放蕩者でそのことに耐えながら頑張る姿を徳永は見ていたという。当時若かった徳永は彼女を強引に連れ出そうと思うこともあったらしい。だが、その気持ちを必死になって抑えた彼は、「おかみさん」からこう言われた。「徳永さん、どじょうが欲しかったら、いくらでもあげますよ。決して心配なさるな。その代り、おまえさんが、一心うち込んでこれぞと思った品が出来たら勘定の代りなり、またわたしから代金を取るなりしてわたしにおくれ」。精魂込めてつくった簪を差し出したとき、「おかみさん」はとても生き生きして見えたという。徳永は「おかみさん」の言葉を頼りにして技を磨いたのだった。この話を聞き、くめ子は徳永に料理を提供することを決心する。彼女の中に確実な変化が生まれたのだった。
くめ子の母親は癌であった。だが、病床の母の機嫌は急によくなった。そして我が家は代々亭主に放蕩される運命であったことを話題にしつつ、「だが、そこをじっと辛抱してお帳場に噛りついていると、どうにか暖簾もかけ続けて行けるし、それと、また妙なもので、誰か、いのちを籠めて慰めてくれるものが出来るんだね」と言いながら、戸棚から箱を持ってこさせ、「これだけがほんとに私が貰ったものだよ」と懐かしそうに箱を揺するのであった。中には徳永が命をこめて彫ったたくさんの金銀簪が入っているのは言うまでもない。その音を聞きながら含み笑いをする母親は「無垢に近い娘の声」だったという。くめ子が新たに見る母親の姿であった。