太宰治『待つ』 2023年4月
この作品は京都帝国大学新聞からの依頼を受けて執筆されたものの、時局にふさわしくないとの理由から掲載を見送られた。戦時下において、出征兵士に対して「待つ」という言葉を使用することはタブーであったことを思い合わせると、検閲を恐れた京都帝国大学新聞の判断はやむを得なかったと言えよう。それでも太宰はこの作品にこだわり、自らの作品集『女性』の最後にこれを組み入れたのであった。そのことからも彼のこの作品に対するこだわりが垣間見える。
作品は極めて短い。「大戦争」が始まってから、それまで家で毎日ぼんやりしているのが大変悪いような気がした「私」は買い物をした後、駅のベンチで腰を下ろす。「人をお迎えに」とはいうものの、「私」がいったい誰を待っているのか、そもそも待つ相手が人間であるのかどうかも、作品の最後まで明らかにならない。ただ、結末で「その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける」と、意味深長な言葉が語られるのみである。
この「私」は20歳という設定になっている。「身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持ちなのです」とはいうものの、「私」は勤労奉仕をしているわけでもない。毎日駅のベンチで待っている「私」の姿は周囲から見れば明らかに異質である。
従来、研究者の間では、「私」が待っているものについて、キリスト教あるいは神などには収まり切れないもの、戦争の終結、新しい道徳の行われる社会など、さまざまな議論があったが、今でも明確な結論が下されているわけではない。多分「私」自身にもそれはよく分かっていないように思われる。むしろ、当時の風潮に同調することなく「待つ」姿勢を毎日貫く「私」の姿勢にこそ注目すべきなのではあるまいか。結果的に「私」は戦時下において独自の姿勢を浮き彫りにしている。この当時、太宰は女性の一人称告白体の作品を相次いで発表している。今に比べはるかに男尊女卑的風潮の強かった時代に、このように時代に迎合しない主人公を造型したことの意味は意外と大きいのかもしれない。少なくとも彼女は、当時は忌避されがちだった「待つ」という行為を選択したのである。
そして、「私」は自分が待っている駅がどこであるか、明示をしなかった。そのことはこの駅が特定されないことで普遍的な意味合いを帯び、その結果「待つ」行為をする「私」すらもが特定の個人の枠を越え、ある種の普遍性を獲得する契機が生まれたのではないか。 戦時下において沈黙を余儀なくされた文学者は多い。その中にあって太宰は執筆活動を続けた。彼にとって執筆そのものが生きることに他ならなかった。制約された状況の中で、自己を失うことなく生きるすべを見出していった彼の姿にしたたかさを見る思いがする。