深沢七郎『無妙記』 2025年3月
なぜこの作品のタイトルは「無明記」ではなく「無妙記」なのだろうか。
「無明」であれば、煩悩にとらわれて、真理を悟ることのできない心の状態をさす仏教用語である。だが、「無妙」という言葉は広辞苑にも載っていない。「妙」には三つの意味がある。一番目は不思議なまでにすぐれていること。「霊妙」という言葉がある。二番目は「巧妙」という言葉に象徴されるように、じょうずなさま。そして三番目は細かいこと。小柄なこと。これは「微妙」という言葉を思い浮かべるとよい。
『無妙記』を読んでいると、上記のうち三番目が該当するのではないかという思いを抱かされる。この作品にはさまざまな人物が登場するが、語り手は彼らをすべていずれ白骨となるものと見なして淡々と語っているからである。この世に生きている間はそれぞれ異なっているように見えても、やがて誰もが死を避けられず白骨化する。その点では大して変わりはない。語り手はそう訴えているようだ。
毎月25日に北野天神の境内で開かれる縁日で骨董品を売る60歳すぎの男が一応の主人公と言ってよいだろう。彼は腕の神経痛で悩んでおり、作品の中では「腕の神経痛の男」という言い方が徹底されている。彼が住むアパートの隣りの部屋にはボート部の主将を務める大学生が住んでおり、隣からは会話が聞こえてくる。部員の父親が亡くなり、部を代表して2名が葬儀に参列することになり、香典をどうするか相談をしているのだ。仲間が帰ったあと、主将のもとに女がやってくるが、自分のものにしようした彼の試みは失敗した。「主将の腰のあたりを眺めるとズボンのボタンは外れたままである」の一文がそのことを端的に示している。その姿を目の当たりにして、「腕の神経痛の男」は40年前の自分を重ねてもいる。
「腕の神経痛の男」は借金の返済を求め、まだ20歳か21歳ぐらいの「六波羅の男」のもとへ向かう。途中霊柩車とそれを負うタクシーにも遭遇するが、死者も会葬者もやがてはいずれ白骨となる。乗った電車で見た乗客たちも同様である。そして「六波羅の男」の家を訪ねるが、当の本人は隠れており対応したのは母親である。母親は今夜のうちに金を返すと宣言し(その時点で当てがあるわけではなかった)、自分を酷評する「腕の神経痛の男」の言葉を漏れ聞いた「六波羅の男」は彼に対する殺意を抱きナイフを持って家を出た。
「神経痛の男」は食堂で食事を済ませ、京極の通りを四条に向かって歩いて行く。作品では、「腕の神経痛の男はまもなく六波羅の金を貸した男にナイフで刺されるのである」と書かれ、その傷が原因で彼が亡くなり火葬されて白骨になることを予告していた。
舞台は京都。歴史あるこの街では多くの人が死んで白骨となっていた。そのことを淡々と述べる語り手は読者に鮮明な印象を刻印する。