埴谷雄高『闇の中の黒い馬』 2025年2月
「私」は頑固な不眠症。なかなか寝付くことができず闇をじっと見続けることは「忌まわしい痛憤の時間」であり、一種の《静謐な歯ぎしり》の時間だと「私」は述べる。
闇の中の思索は自己が小さな微塵と化すプロセスであり、「私」曰くそこには「一種戦慄に充ちた不思議な眩暈」と、「《静謐な虚無》のなかへ無垢な嬰児のごとく睡りこむ一種甘美な陶酔」さえ備わっているという。それはこのように無限へ向かって探求することが、おそらく「私」に自己の本源を気づかせてくれるからだろう。
「私」は自分にとっての「哲学的な闇」について語る。「一匹の黒馬」が幻想の中で浮かび、「私」の眼前を掠め過ぎていくのである。「私」は黒馬の尾をつかむ。「もしこの手を放さなければ、と、私は自身に呟いた、《闇の果て》までゆけるのだ……」。
「私」はしばしば《ヴィーナスの帯》と自ら名づけた宇宙の境界について語っている。その境界を越えれば「宇宙の永劫の暗い部屋」が現れ、そこで《過誤の宇宙史》を「過誤の万華鏡」によって眺めることができる。この暗黒の帯のはずれに「小さな無数の光をちりばめた宝冠のように輝いている一つの旋回する環」があり、それがゆっくり回転する。それに従い、「黒馬のかたちはいわば暗黒の果てもない空間に適わしく、果てもなく拡大しつつあった」いう。そして忽ちのうち、輝く車輪は遠ざかった。
淡い光も見えなくなり、「虚無と停止」を感じたとき、「私」は《闇の果て》を実感する。「私はいま宇宙と同じ大きさになっているはずである」。
「私」にとってこの闇は必要不可欠なものだ。そして「私」はこう結論づける。「その私に、いま、一つだけ確かなことがある。暗黒のなかに蹲っている魔物のすぐ傍らで、この黒馬は、絶望と悲哀の混合したなかの限りもない諦念に充たされた、限りもない温和な眼で前方を眺めているのだ。ヴィーナスの帯の彼方、闇の果て、へまで私をつれてゆけるのは、暗黒の深い意味を知っているこの黒馬のみであるに違いない」。
作品は幻想的であり、抽象的ですらある。作品が書かれたのは1963年。戦時中の暗い時期を通り抜けた埴谷雄高が書いたこの作品は、今を生きる我々にその現代社会が本当に確かなものなのかと問い続けているような気がしてならない。