(220)『桜の森の満開の下』

坂口安吾『桜の森の満開の下』  2023年8月

            小田島 本有

 山賊にとって、最後に出会った女はいかなる存在だったのだろうか。彼はそれまで悪の限りを尽くしていたし、既に女房は7人いた。いずれも強盗を働く際、亭主を斬殺していたからである。今回もそうだった。女の美しさに心打たれた彼が「今日からお前は俺の女房だ」と言うと、彼女は頷いた。
 彼女は「わがまま者」と語り手に評されるだけあって、山に入る時は男に背負われたからには一度も下りようとしない。それまでいた女房たちを綺麗な者から順々に斬殺するよう男に求める。最後に残った「いちばん醜くて、ビッコの女」だけは殺害を免れ、女中となった。もともと都に住んでいた女は田舎の生活にも満足しない。飽き足りない彼女は男に都に戻ることを要求した。
 都で女が要求したのは人の首であった。男は人を殺して首を持ち帰る。すると女はそれらを使って「首遊び」に興じる。だが、このこと自体はとどまるところを知らない。ある時、彼は「白拍子の首」が欲しいとの女の要求を拒否し、数日間山中を彷徨う。ある朝、目覚めると彼は一本の桜の木の下にいた。桜の花は満開だった。このとき彼の脳裏に浮かんだのは故郷の桜の森である。ここではいつも不安と怖ろしさに襲われるのが常であり、彼はここ数年来いつかあの下で地べたに座ってやろうという思いを抱いていた。
 彼は都を離れ山へ戻ることを決意する。このことを女に話したとき、彼女は一緒に帰ること、そして首を諦めることを伝えた。「私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」と彼女は涙ながらに言うが、このとき彼女は男を再び都に連れ戻す自信があったのだ。
 彼は女を背負いながら山に戻り、桜の森を訪れる。桜は満開で花びらが落ちていた。このとき、男は女の手が冷たくなっていることに気づき、女が鬼であることを知る。男の背中にしがみついているのは「全身が紫色の顔の大きな老婆」だった。彼は鬼の首を絞める。女は息絶えるが、このとき花びらは散り続けている。桜の森の満開の下の秘密は分からないが、語り手はそれを「孤独」であったのかもしれないと語る。だが、男はもはや「孤独」を恐れる必要がなかった。彼はこのとき「胸の悲しみ」を感じ、女の顔の上の花びらを取ろうとする。だが、女の姿は消えて花びらとなっていた。そしてその花びらを描き分けようとした男の体も消えてしまうのである。
 男はもともと金品などを略奪する人間だったし、亭主たちを斬殺してその妻を得ることで「所有」する生活をしていた。最後の女もそうだったはずだが、決して彼女を「所有」できていたわけではない。
 この作品が発表されたのは1947年。戦後日本が新しい法律のもとスタートしようとしていた。