(222)『虫のいろいろ』

尾崎一雄『虫のいろいろ』  2023年10月

            小田島 本有

 病気生活4年目を迎える「私」が家の中で目にするさまざまな虫たちの様子を描いた作品が『虫のいろいろ』である。タイトルが『いろいろな虫』ではなく『虫のいろいろ』であることが鍵だ。蜘蛛や蠅、蚤、さらには蜂に至るまで、彼らの生態に「私」の関心は及んでいる。
 レコードから流れる「チゴイネル・ワイゼン」に合わせて動いていると思しき一匹の蜘蛛に「私」は注目する。曲が終わると卒然静止したかと思うが、急にすばしこく姿を消す蜘蛛の姿はユーモラスですらある。
 蜘蛛の記述はこれだけに終わらない。夏の頃たまたま空瓶を使おうと思って栓を開けると蜘蛛が走り出てきた。記憶を溯るとその空瓶を洗って栓をしたのは春である。半年の間、蜘蛛は脱走の機会を待ち続けていたことになる。
 家の便所の窓の二枚の硝子戸の間に蜘蛛が閉じ込められているのを発見したときの記述も面白い。「私」は家族に「その硝子戸を閉めるな」と言いつける。空瓶の一件もあって、この蜘蛛の行く末を見届けたいと思ったからである。この便所からは遠く富士の姿が眺められた。光によってさまざまな姿を見せる富士と、じっと動かない蜘蛛が対照的に捉えられている。蜘蛛が幾分痩せていくのも感じられていたが、そろそろ二か月が経過した頃、妻がうっかり蜘蛛を逃がしてしまう。「蜘蛛の逃げ足の速いのには驚いた、まるで待ち構えていたようだ」と語る妻の弁明を聞きながら、「私」も蜘蛛との「根気くらべ」も大儀になっていたことを感じていたことを認めている。
 「私」は48年間生きてきたという。病気を抱えたこともあり、ここ最近は「死」の想念にも取りつかれることが多くなった。「私」は「死」を「彼奴(きゃつ)」呼ばわりするが、いずれそこに辿り着くのが人間として避けられない宿命であるならば、残されるのは時間の問題である。そんなことを思うのも「天井板に隠現する蜘蛛や蠅」を眺めるからかもしれない、と「私」は考える。
 蚤の曲芸で蚤を仕込むのは、小さな丸い硝子玉の中に入れることで蚤に跳躍の意欲を失わせることが始まりだという。また、ある友人は、ある種の蜂は自分が飛べないことを知らないから飛べる、という逆説的な話をしてくれた。「蚤は馬鹿だ、腑抜けだ。何とか蜂は、盲者蛇におじずの向こう見ずだ」と言い切る「私」は、自分が蚤に似たところがあるかもしれない、などと思ったりする。
 最後は「私」が自分の額のしわで蠅を捕まえた体験談が綴られる。あまりに珍しい出来事に家族は集まり、大いに盛り上がり、「私」の額を撫でては笑い出す始末。「もういい、あっちへ行け」と彼らを追い出す「私」。少し「不機嫌」になってきたという。珍事をめぐる家族のほのぼのとした雰囲気がうかがえる作品と言ってよいだろう。