(223)『もの喰う女』

武田泰淳『もの喰う女』  2023年11月

            小田島 本有

 『もの喰う女』は1948年に発表されている。作品の中で「私」は「この二年ばかり」を「これといった立派な仕事を何一つせずに歳月は移り行きました」と述べているが、それはまさに敗戦直後の混乱の時期と言ってよい。
 「私」が付き合っている二人の女は実に対照的である。弓子は東京の中心部で新聞社に勤める多忙な女性だが、ひどく男をひきつける顔だちであるため付き合う男たちも多い。それが「私」に絶えず不安な気持ちを与えている。一方、房子は神田の古本屋街の喫茶店で働く女性であり、そこに行けば彼女に必ず会うことができる。そして何よりも房子は「私」に好意を寄せてくれていた。
 そして何よりも特徴的なのは、房子が「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ」と述べるくらい、「もの喰う女」であったことである。この作品のタイトルが「もの食う女」ではなく「もの喰う女」であったのは、後者がより動物的な生命力を房子が感じさせていたからであろう。これはいつも「食慾がないのよ」と訴えている弓子と実に対照的である。
 弓子は「私」が店を訪れると、安心したかのように「わたしにもドーナツ一つ下さいな」と勘定台の向こう側のボーイに注文する。もちろんこれは彼女の月給から差し引かれるものだが、そのことに頓着しない姿を、「そこには恋愛感情と食慾の奇妙な交錯があるのです」と「私」は言い切る。彼女にとって「食慾」とはまさに彼女そのものだった。弓子との間ではいつも緊張を強いられていた「私」にとって、弓子の食べる姿は「私」にある種の解放感をもたらしてもいた。少なくとも、「私」は彼女の従順さに安堵を覚えていたのである。
 「私」が「接吻したいな」と言えば彼女は頷いて応じてくれるし、「オッパイに接吻したい!」と言えば一瞬のためらいもなく乳房を目の前に見せてくれる。「私」は思わず乳房に吸い付くがすぐに止める。「何か他の全くちがった行為をしたような気持、あっけない、おき去りにされた気持」を覚えたからである。「あなたを好きよ」と振り向きざま言った彼女はそのまま姿を消した。「私」には「胸苦しく、はずかしさと怒りに似たもの」が底に残されたのだった。
 「私」は疑問に捉われる。あの素直さは愛なのか。彼女の行為はとんかつ二枚の御礼なのか。食べること、食べたことの興奮が乳房を出させるのか。そう思うにつけ、「まるで俺は彼女の乳房を食べたような気がする」と、その平気さに重苦しさを感じずにはいられない。「食慾、食べる、食慾」とうつぶせになってうなり、それから「すすり泣く真似」をする「私」。房子の天真爛漫さにかなうだけのものを持ち得ていない自分を恥じる思いがそこにはあるのではないか。ちなみに、房子は後に作者の妻となる百合子がモデルと言われている。