横光利一『機械』 2022年7月
「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った」。ネームプレート製造所で働き始めた「私」はこう語り出す。「初めの間は」とあることから、今ではそう思っていないことが分かる。それどころか、「困っているものには自分の家の地金を買う金銭まで遣ってしまって忘れている」ほどの「無邪気さ」「善良さ」を持つこの主人を「仙人」にたとえてしまうほど、いつしか「私」は主人に魅了されていくのである。
その「私」をいわば産業スパイではないかと警戒したのが先輩格の軽部だ。彼もまた主人を思う気持は負けない。ただ、仕事の能力という点ではどうやら「私」の方に分があったようだ。それが証拠に主人は「私」にだけは暗室に入ることを認めた。そこで化学方程式に従って元素を組み合わせるのが仕事だが、それは軽部の手には負えなかったようだ。だが、後に市役所からネームプレート5万枚を10日間でせよという依頼があり、仕事は多忙を余儀なくされる。そこで新しく入ってきた職人が屋敷という男である。そうすると今度は「私」が屋敷を製造所の秘密を探りにきた人間ではないかと疑いを抱くようになる。つまり、「私」はかつての軽部と同じような状況に追い込まれたのだ。
そしてある夜中、屋敷らしき人物が暗室から出て主婦の部屋へ入っていくのを目撃した「私」は、そのことを屋敷本人に問い質す。方程式は盗んだかという会話の中で「私」はしだいに屋敷に親しみを覚え、彼に対して尊敬の念すら抱き始める。その後、軽部が屋敷を殴りつけ、それを止めさせようとした「私」の言葉に軽部がかえって逆上し、やがてその状況を収拾すべく、今度は屋敷が「私」を殴り出すという混乱状態まで生み出してしまった。この「馬鹿馬鹿しい格闘」も「5万枚のネームプレートを短時日の間に仕上げた疲労」のせいだろうと、後に「私」は回想している。
いずれにせよ、仕事は無事終了した。だが、主人が受け取った金額全部をまた落としてしまう。久しぶりに儲けた金を持ってみたいと言われ、主人の姉が油断をしてしばらく持たせてしまったのが運の尽きであった。やりきれなくなった軽部は酒を飲もうと提案し、屋敷と「私」はこれに応じる。ところが、飲んだ後目覚めると、屋敷が重クロム酸アンモニアの残った溶液を水と間違えて飲んで死んでいた。周囲は軽部が殺したと見ているが、「私」にはそう思えない。あのとき三人が一緒に飲んでいたのだから、もしかすると屋敷を殺したのは自分かもしれないのだ。こうして「私」は混乱する。「ただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っている」のを感じるなかで、「誰かもう私に代って私を審いてくれ」という末尾の言葉は悲痛ですらある。だが真相は全く分からない。