(221)『蜆』

梅崎春生『蜆』  2023年9月

            小田島 本有

 『桜島』は死を覚悟していた主人公が玉音放送で敗戦を知らされるまでの過程が書かれていたが、『蜆』では敗戦後の食糧危機やニヒリスティックな人々の精神のありようが描き出されている。その点でこの2作は時間的に繫がっていると言えよう。
 外套もないなか粕取焼酎を飲んで酔っていた「僕」と、会社が解散となって明日からの生活を考えなければならない立場に立たされた「男」が偶然出会う。「男」はこのとき外套を着ていた。その外套を褒められた「男」はそれを脱ぎだし「僕」に手渡す。「男」にこのような行動を促したものは何だったのか。「外套脱ぐと恐しく寒いな」と言いつつも、「男」は「俺は人から貰う側よりやる方になりたいと思う」と語る。だが、10日ほど経ったとき、寝ていた「僕」はこの「男」から外套を剝ぎ取られる。船橋に用事で行かねばならず外套がないと都合が悪い、というのがその理由だった。
 その2、3日後、二人は偶然再会する。「男」は外套を着ていたが、釦の一つが剝ぎ取られていた。「男」はその経緯を語る。満員の電車に乗り込んだが、その電車には扉がなかった。扉口で若い女がいて悲鳴を上げているのを見かねた40歳ぐらいの「おっさん」が場所の交代を申し出た。「おっさん」はしっかり棒をつかんでいたがやがて耐えられなくなり、「男」の体重がかかったことで転落を余儀なくされる。その際「おっさん」は必死で「男」の外套の胸をはたいたが、「男」は思わずそれを払い除けた。そのとき釦が外れたのである。人が一人転落死したにもかかわらず、残された乗客たちの会話は深刻さが感じられずいかにも間延びしている。敗戦後間もない状況の中で誰もが他人に対して無関心なのだ。転落した「おっさん」は重いリュックを電車に残していた。「男」はそれを自宅に持ち帰る。プチプチという音が聞こえ、それがリュックの中の蜆の泣き声であることを「男」は知った。「日本は敗れたんだ。こんな狭い地帯にこんな沢山の人が生きなければならない。リュックの蜆だ。満員電車だ。日本人の幸福の総量は極限されてんだ。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているのだ」と考えた「男」は、「俺たちは自分の幸福を願うより、他人の不幸を希うべきなんだ」と考え、「醜悪だけれども俺はそこで生きて行こう」と心に誓う。この「男」はそれまではそれなりの良識や教養を兼ね備えた人間だったようだ。だが、これまで自分が努めてきた「善」なるものが「偽物」として「男」には今や認識されている。その彼が他人の不幸を願うあたりに、この時代の荒んだ精神状況を伺うことができよう。
 「男」はリュックに入った蜆を闇屋で売り払い、それなりの収入を得た。そして新たな旅立ちに際し、これから暖かくなることもあって、外套を売り払うつもりであることを「僕」に宣言し、それを実行する。「僕」は新たに自らの殻を破ろうとする「男」のいわば立会人になったのである。