大岡昇平 『野火』 2006年11月
『野火』は単なる戦争文学の域に止まらない、普遍的な広がりを持った文学と言えよう。我が国にも戦争を扱った文学は数多くある。しかし、それらは例えば原爆の悲惨さを扱った『黒い雨』(井伏鱒二)であったり、戦時下における庶民の姿を描いた『二十四の瞳』(壺井栄)であったりした。
『野火』がこれらの文学と決定的に違うのは、主人公が一兵士として比島へ赴き、現地の女性を射殺したり、飢えのなかで人肉食を行ったりした当事者であるということである。すなわち、作者は戦争を加害者の視点から描き、そのような行動をしてしまう人間そのものを問いかけているのだ。そのような描き方を自虐的と捉えるのは適切ではない。
「私」は作品の冒頭で、病気のため隊から離れることを命じられた男である。与えられたのはわずかな食糧と一個の手榴弾のみ。「私」はいわば隊から「見捨てられた男」であった。飢えと戦いながらジャングルをさまよう「私」。人家があれば略奪も辞さない。そのような中で自分を見つけた現地女性を「私」は射殺した。「私」はこの事実を「偶然」という言葉で片付けようとする。しかし、「私」の悲しみは禁じ得ない。「私」はすべてはこの銃のせ いだとも言い聞かせる。だが、後にこの銃すらも捨てた。ここには「私」なりの意志的選択が見られるし、偶然性や銃に責任を押し付けていた自らの姿勢を決定的に変えたと考えられる。
あるいは、死んだ仲間の肉を食べたいという気持が湧き起こり、右手が伸びる場面がある。この仲間は死ぬ間際、その行為を認める発言すらしていた。だが、このとき自分の左手が右手を抑えた。なぜかは本人も分からない。しかし、この時のことを「私」は何度も思い返し、考え続けるのだ。
その「私」も、後に動けなくなったとき、同じ日本人兵士の永松から差し出された「猿の肉」を口に入れた。それがおそらく人肉であることにうすうす気づいていながらも……。
人間とは認識する動物である。それが人肉であると認めてしまえば口に入れることはできないが、そうでなければ受け入れることができるのである。
作品全体を通じて印象的なのは、「私」自身が曖昧な結論でごまかすことを自ら禁じる、徹底的な自己追求の精神の持ち主であること。最後、永松に人道的な怒りを覚えた「私」が引き金を引き、その後精神に異常をきたしてしまったのも、「私」の中になんとか「人間」であろうとする心があったからだ。「人間」を「人間」たらしめているものは何なのか。『野火』はそのことを我々に問いかけている。