(10)『津軽』

太宰治  『津軽』  2006年2月

小田島 本有    

  おそらく数ある作家の中で、太宰治ほど読者によって毀誉褒貶の差が激しい人物はいないであろう。太宰文学に心酔する人間はそれこそ主人公に自分を重ね、我こそは彼の最大の理解者であることを自認するし、その一方で彼の文学に極端な拒否反応を示す人間は彼の生きざまそのものを否定しようとさえする。
 その中にあって、安定した人気のあるのが『津軽』である。何よりも語りがのびやかであり、独特のユーモア感覚が生かされている。
 「新風土記叢書」の一冊として執筆を依頼された太宰は、津軽旅行記としての体裁を考えた。その様子は珍道中といった趣さえある。太宰を愛する地元の人に「疾風怒濤の接待」を受けたり、途中で買った立派な鯛を旅館に持ち込んで余計な説明をしたら味も素っ気もないただの切り身が出され落胆させられたりするなど、その種の話は枚挙にいとまがない。しかし、作者がのびやかなのは飽くまでも故郷の金木町以外の土地を訪れている時であり、地元の長兄たちの前では気疲れがすることを彼は告白しないではいられなかった。
 作者は、結末で越野たけとの再会場面を描いていた。かつての育ての親だった彼女と30年ぶりの再会を果たすべく、小泊村を訪れる場面は作品の白眉とも言える。再会が実現したものの、その嬉しさが言葉とならず二人で黙って運動会を眺めているばかりのシーンは有名だ。このとき、作者はすっかり安心しきっている。先年亡くなったばかりの実母は、このような安堵感を自分に与えてくれなかった、と彼は言う。
 しかし、この言葉を素直に受け取っていいものだろうか。作品中では、実にさりげなく自分のことを「母親ゆずりの苦労性」と表現している箇所があった。ここは文脈から言ってあえて「母親ゆずり」という言葉を添える必然性はない。作品全体を通し、読者は育ての親に対する作者の限りない愛情を確信する。そのことをより効果的に伝えるためには、実母に対する思いを表現のうえで抑制する必要が作者にはあったのではないか。実家を訪れて気疲れがする作者はまさに「苦労性」そのものである。それは彼の一生を左右する根本的な性格でもあった。それを「母親ゆずり」と書くことで、彼は実母との一体感を確かに作品の中に刻印したのである。
 作品は昭和19年に書かれた。戦争のさなかであるにもかかわらず、作品はあくまでも明るく、暗さは微塵も感じられない。