(9)『痴人の愛』

谷崎潤一郎 『痴人の愛』  2006年1月

小田島 本有    

   『源氏物語』には、主人公光源氏が少女の若紫を見つけ、あらぬことか彼女を自分の家に引き取り、彼女を理想の女性に育て上げていこうとする有名な話がある。谷崎潤一郎は『源氏物語』の現代語訳を試みたほど、この物語を知り尽くした人物であった。しかし彼は『源氏物語』を痛烈に批判できる人物でもあったことを忘れてはならないだろう。
 河合譲治は、カフェで少女ナオミと出会う。職場では「君子」と揶揄されていた彼にとって、せいぜい彼女くらいしか相手にできる女性はいなかったということだ。譲治は彼女を家に引き取り、彼女を養育しようとする。
 彼には一つの誤算があった。それは教える側と教えられる側との関係は決して一方通行ではありえないということである。ましてや二人が一つ屋根の下で住むようになれば、その関わりはよけい相互主体的にならざるを得ない。しかも、ナオミは決して素性のいい女性ではなかった。理想の生徒になりえない彼女が、成長にしたがって肉体だけは妖艶さを発揮していき、やがて彼を翻弄してしまうであろうことまでは、庇護者たる譲治にも想像ができなかったのである。そもそも相手を理想どおりに養育するということ自体が男の側の幻想でしかない。
 ナオミは本能的に自分の武器を自覚した女性であった。彼女はその娼婦性に磨きをかけ、譲治を欺いてはよその男たちと奔放な生活を送る。事実を譲治に問い質されてもしらを切るしたたかさが彼女にはあった。  このような彼女にさせてしまった責任の一半は譲治にもある。彼はナオミに「どんなものでも買ってやる」、すなわち彼女に対してはお金を惜しまないことを約束した。恋愛中の男の発言の迂闊さが招いた結果であった。
 ナオミは千束町の出身である。決して育ちは良くない。もともと実家を飛び出し、自由奔放に生きたいと思っていた彼女にとって、自分を引き取って育ててくれるという譲治は実に好都合な人間だった。ナオミは譲治をうまく利用したのである。
 ついに我慢がならず、ナオミを家から追い出したはずの譲治だったが、それもやがて経済的な支えを必要とする彼女の術中にはまってしまい、彼は彼女の肢体の前で拝跪を余儀なくされる。その点で譲治は「情けない男」そのものである。
 譲治は結末で、「これを読んで馬鹿々々しいと思う人は笑ってください」と言う。しかし、本当に笑える読者はいるのだろうか。我々はここに作者谷崎の巧妙な仕掛けがあることを忘れてはならないだろう。