(8)『城の崎にて』

志賀直哉 『城の崎にて』  2005年12月

小田島 本有    

 主人公が電車事故に遭い、後養生のため訪れた温泉地で目撃した幾つかの小動物の死。漠然と死の不安を抱えた主人公にはそれらが決して他人事とは思えない……。これは実際に作者の実体験が素材となっており、いかにも随筆風なさりげない書き方がされているが、小説の中では目撃した小動物の死の順序が変えられており、そこには明らかに小説家としての構成意識を読み取ることができる。
  主人公は電車事故で九死に一生を得た。医者からは、脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、二、三年でそれが出なければ心配はいらないと言われる。主人公はいわば宙ぶらりんの状態。だが、静かな城崎温泉で時間を過ごす中、死そのものに対する親しみが湧いてきていることも主人公は語る。
   しかし、その思いが掻き乱される場面に主人公は遭遇した。魚串を喉に刺され、人間たちの投石から必死になって逃げようとする鼠を主人公は目撃する。主人公がこのとき抱いた嫌悪感は、ふざけて投石を繰り返す人間たちにも勿論向けられていたが、それ以上に生物が死に至るまであのような苦しみを避けて通れないという事実を目の当たりにしたことが大きい。それ以前に蜂の死骸を見た時に感じた静謐感は、結果としての死しか見ていなかったからなのだ……。
  そして、たまたまいもりを見つけ、驚かすつもりで主人公は石を投げる。しかし、石はいもりに命中し、いもりはあっけなく死んだ。このとき主人公は述べる。「自分は偶然に死ななかった。いもりは偶然に死んだ。」ここには「偶然」という言葉で自己を正当化する主人公のあざとさが見えてくるのではないか。石がいもりに当たったのは「偶然」かもしれない。しかし、主人公が石を投げた行為そのものは決して「偶然」ではなかった。小動物の立場からすれば、鼠に向かって石を投げた人間たちも、いもりに投石をした主人公も大きな違いはない。「驚かして水へ入れよう」という主人公の説明はなんの慰めにもならないのである。
  主人公はこの事件を通じて生と死が両極でないことを痛感した。彼は城崎温泉を訪れた際、三週間以上―我慢出来たら五週間位居たいものだ」と考えていた。しかし、彼は結局三週間でここを離れる。つまり、彼はここにこれ以上滞在することに「我慢」できなかったのである。ここで養生をしていても、生と死が偶然的要素によって左右されるものならば、それは主人公の心を落ち着かせることにはならない。
  この作品の結末は、「それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。」である。脊椎カリエスの不安だけはなくなった。だが、他の要因でいつ死が訪れるとも限らない。生と死が両極でないことを知ってしまった主人公は、もはや手放しで喜べない状況の中にいる。