大岡昇平『出征』 2024年2月
『出征』は大岡が『俘虜記』に収録される一連の作品を発表した後に書かれた短編である。『俘虜記』は彼がフィリピンのミンドロ島での体験を綴った作品だが、『出征』はいわばその前史に相当する。すなわち、三ヶ月の教育召集が終わって除隊できると思っていたところ、「私」(大岡)は南方に送られるメンバーの一人になった。約100名のうち半数がこれに該当した。
東京に不慣れな妻が子ども二人を連れて神戸からやってきた。面会の日に妻は現れず、行進の途中で「私」は妻とようやく会うことができた。このとき、「私」は妻の姿に自分が死んだ後の姿を見、妻は変わり果てた「私」の姿に「死」を見たという。この限られた時間の中でのやりとりは印象的である。
部隊は門司に到着し、そこで一週間滞在した。東京を発つときの慌ただしさが嘘のような無為な生活を送る中で、「私」はしだいに自分の惨めさを痛感するようになる。行き先はマニラと決まっている。「私」はこの負け戦が資本家の自暴自棄と旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っており、その犠牲になるのは馬鹿げていると感じていた。だが確実な死の予感に囚われたとき、憎むべき資本家や軍人に反抗することはできなかったのかという反省の心も「私」には生まれている。だが、当時にあって反抗することは死を意味する。一方、召集されてもそれが必ずしも死を意味しない。そういう思惑もあり、「私」は反抗しなかったのである。
いまは軍の中にいる。そこで反抗するのは無意味に等しい。死の予感に囚われた「私」は船が日本を離れる前にそれまでの全生涯を検討することを試みた。当時の「私」は30代半ば。「私」はこうして全生涯を遍歴するのに三日かかったと述べている。このとき「私」は戯れの恋だと思っていた女の映像が白昼夢のように浮かび上がる。それから「私」の脳裏に浮かんだのは雑嚢の中に入っていた千人針だった。
「私」は千人針を「私の好まぬ迷信的持物」と評しているが、これを海から放り投げた。この理由について「私」は多くを語っていない。「強いていえば私は前線で一人死ぬのに、私の愛する者の影響を蒙りたくなかったといえようか」と述べるに止まっている。千人針は言うまでもなく、多くの女性が一枚の布を縫いつけて、武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈るものである。当時多くの女性たちがこれを行った。だが、中には周囲の眼を意識して心ならずも千人針を行っていた人もいただろう。そこには国民こぞっての戦時体制を強いる時代の雰囲気があった。千人針を棄てたとき、周囲にいた2、3人の兵士たちが怪訝と非難の表情を「私」に向けていたのもその表れだ。
船は祖国を離れていく。このとき「私」は「出征によって、祖国の外へ、死へ向って積み出されて行くという事実」を実感する。その時の感慨は実に重い。