(227)『小さな礼拝堂』

長谷川四郎『小さな礼拝堂』  2024年3月

            小田島 本有

  長谷川四郎はソ連軍の捕虜となり、シベリア各地の捕虜収容所で5年間を過ごした。そのときの体験をもとにして書かれたのが『シベリア物語』で、「小さな礼拝堂」はその中の二作目にあたる。
 柵に囲まれた収容所の中で発疹チフスが流行し、平均一日一人が亡くなったことがあった。そのため「私たち」は死体置場を最も遠隔な片隅に建てた。中には木の寝台が据えられ定員は一名。
 当時施設内の建物にはそれぞれロシア名がつけられていたが、ソ連の検察官がその小さな小屋を訪れたときその名はまだ付けられていなかった。ロシア語であれば「モルグ」(死体置き場)という言葉があるが、それは「私たち」の感覚にはそぐわない。なぜなら「私たち」は口頭では「英霊安置所」と呼んでいたからである。だがそれを使うわけにはいかない。そのようなとき、「私たち」に炭坑危害予防の規則を毎日教えに来ていたパウロフという退職した老炭坑夫が教えてくれたのが「チャソーフニャ」という言葉であった。後で字引を引くと「小さい礼拝堂」という意味が書かれており、これがこの作品のタイトルにもなっている。
 結局このチャソーフニャに入ったのは3名だった。
 一人は木片(こっぱ)大工という渾名の若い男。彼は赤ん坊のころに煮えくりかえった味噌汁を浴びたために顔半分と頭全部が廃墟と化し片眼が開いていた。彼は炭坑で働いていたが、親方兼相棒であるイワンという中年男と会話が成立しないにも拘らず相性が良かった。そしてイワンが病気で休んでいたとき、この若い男は不慮の事故で呆気なく亡くなったのである。
 二人目は岩手県出身の百姓。彼はどうやら食べた茸がよくなかったらしい。
 そして三人目は脱走を繰り返していた男であり「ベグレーツ」(逃亡者)とソ連将校に呼ばれていた。その彼は三度目の逃亡に失敗し射殺された。
 この3名に共通しているのは、いずれも固有名詞が与えられていないこと。しかも死後の処理も決して丁重とは言えない。ここでは個人としての死が尊重されていないことを伺わせる。
 結末で「私たち」が別の収容所に移される際、ウクライナからの強制移住者たちが「私たち」のそれまでの収容所に入ったことが書かれている。彼らはまさに「スターリン憲法」のもと粛清の対象となった人たちだ。「私たちは同じ炭坑で彼らと一緒に働き、非常に、彼らと親しくなって、終(つい)にソ連当局から注意を受けたほどだった」とあるのは、両者が同じ境遇に置かれており、相憐れむ気持ちが互いに存在していたからであろう。
ここに連帯意識が生まれていたのは言うまでもない。