(234)『二世の縁 拾遺』

円地文子『二世の縁 拾遺』  2024年10月

            小田島 本有

 書肆に勤める「私」が布川先生の自宅を訪れ、上田秋成の『春雨物語』の口語訳の口述筆記を担当する。高齢で体の自由もきかない布川先生は夫人に先立たれ、長男は戦死し、一人娘も寄り付かない。恩給も年金も受け取れない中、教え子でもあった「私」がこの仕事を引き受けたのも先生を経済的に援助する意味合いがあった。
 先生の自宅にはみね子という女中がおり、先生が尿意を催しそうになったとき、彼女がその世話をする場面も描かれている。
 『春雨物語』の中の「二世の縁」は、入定といって即身仏となるべく生きたまま埋められた僧侶が、時を経てミイラ化した状態で掘り起こされ、蘇生する話である。円地の作品では原典にはない加筆がされており、土から掘り起こされた定助が当初は村人から「高徳の僧」と崇められながら、実際には前世で果たすことのできなかった性の煩悩に執着する愚鈍な男として表現されていた。
 女子大学を卒業してまもない頃、「私」は恩師であった布川先生に書物を借りたり研究の手伝いをさせてもらったりしたが、その際に先生は大胆にも「私」に身を摺り寄せてきたり手を握ったりもしていた。当時「私」には婚約者もおり、先生のそのような態度を軽蔑したのは言うまでもない。
 「私」はその後結婚したが、海軍の技術将校だった夫は空襲で亡くなった。今は男の子一人を抱える戦争未亡人である。10年間にいろいろな男たちの露骨な求愛に出会うこともあったが、「一年数カ月しか結ばれることなかった夫との接触が自然に自分を湿おし花咲かせているよう」と「私」は感じている。
 先生の自宅を辞したとき、「私」の脳裏に浮かんだのは「二世の縁」で性に執着する人物を描いた上田秋成の意図、あるいは布川先生と女中みね子との隠微な関係であった。そのとき「私」が思い出したのは夫が爆死する前夜の彼との抱擁場面である。「子宮がどきりと鳴った」という一文が殊更目を引く。
 このとき、よろめいた「私」を助けてくれた男がいた。「私がさっき滑った時何を考えていたか御存じ?」と語り始めた「私」は亡くなった夫のことを話題にした。すると男は「私」の言葉をふさぐかのように接吻してきたのである。このとき触れ合った犬歯はまぎれもない夫の歯であった。藪の中に倒され男が次の行為に移ろうとしたとき、「私」はこれは夫ではないと気づき、その場を一目散に走り出していく。この場面で現れた男は「幻覚」と捉えるべきかと思われる。
 俗に「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世の縁がある」と言われる。「二世の縁」に触発された「私」が亡夫との性愛を想起する話としてこの作品は印象深い。